をしています。まして今年は、働く人々の中から幾人かの新しい作家が生れて、我々の収穫は決して貧弱だとはいえませんでした。民主主義文学運動として必要なのは、批評活動が活溌にそれらの作品同士のもっている意味や連関性をつむぎ合せて、作品活動の全面をその多様さ、変化において民主主義文学の成果として示すことです。そのようにして綜合し整理し、価値を明らかにした批評は、昔のロシアでベリンスキーやチェルヌイシェフスキーの文芸評論が、解放運動の強力な一環として果した革命的役割を果すはずです。蔵原惟人の評論も、佐多、松田、壺井、宮本の小説も、新しく書き出した人々の作品も、すべての労作がその独特さと共にもっている民主的文学としての意味において組織的にとりあげられた時、私たち自身の心をつかまえてゆすぶるような古きものへの闘いの意気が感じられないでしょうか。こんにち若い執筆家として評論や小説をかいている人々は、終戦まで蔵原惟人の名を知らず、宮本、中野、壺井その他の人々の名さえ知らなかった、という例が少くないことを考慮すべきです。

 労働者に役立つ文学であるかそうでない文学であるかということは、その文学が日本の民主主義建設の過程にどんなプラスをもっているかいないかということで決定すると思います。文学は文学です。ビラではない。ポスターでもない。労働者の生活を描いたというだけで、またその作品を働く人が書いたからというだけで民主主義の文学であるということは云えないし、その階級にとって値打あるものとも云えません。文学の階級性というものについての以上のような自然発生的な考え方は、ここにいらっしゃる江口渙さんなどもよく御存知のように、日本のプロレタリア文学運動の初期、まだ無産者の文学と云われて宮嶋資夫その他が小説を書き出した頃の現象です。その後労働者といい、無産者という一般的な社会層の中に、プロレタリアとして歴史を推進させてゆく自覚ある労働者部隊の革命的な任務が、はっきりさせられると一緒にプロレタリア文学は、アナーキストの権力否定の文学とも違うし、貧窮文学でもないし、下村千秋のようなルンペン・プロレタリアートの文学とも違うことを知りました。
 労働者の役に立つ文学が単なる宣伝文学でも啓蒙小説でもないということは、真面目な読者自身がよく知っています。例えば一つのストライキを描いた作品が、文学として働く人の人
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