ろしく中断されています。戦争中評論について勉強してきた人々は、プロレタリア文学のあるままの歴史さえも手に入れることはできませんでした。手に入るものは、プロレタリア文学運動を何処かでゆがめていわゆる自己批判したものや、反対的立場から観察したようなものが多くて、熱心に、理性的な発展的文学の方向をさぐっていた人々は、まるで屑糸の中から使える糸をぬき出して縫物をするように、銘々の生長をおしてきています。いろいろの角度が散在しており、いろいろの個性が作用し、その角度と個性に戦時が影響している。そのために去年の大会の時もとりあげられたように、日本の民主革命と民族の自主的発展の課題に根をおいて、堂々とブルジョア文学の動き、民主主義文学の動きをひっくるめてその相互関係を解明したような批評活動は、不足でした。日本のこんにちには、かつてのベリンスキーがロシア民衆のために書いたような文芸評論が必要です。それは民主主義文学にたずさわる者のためばかりでなく、人民の文化とは何か、人民の文学とは何か、人民の精神の歴史とは何かということを、あらゆる人が自身の基本的な人権の一つとして、人間としての誇りのためにつかみなおすためになくてはならないものです。この点では、新日本文学の業績はまだ十分といえないと思います。
 たとえ民主主義文学の基準に立っているにしろ、一作家、一作品の枠に止まって、その作品、その作家ばかりを細かくつっつきまわして、その作品、その作家が民主主義文学の全体の中で、どういう意味と価値をもった存在であるかということを読者に理解させてゆくことができなければ、やっぱり局所的であり、個人主義的な観念にしばられた文学感覚であるといえると思います。
 さっき横浜の方から宮本百合子の作品の話がでて、宮本百合子の作品は、多くの場面で話題になっているが、松田解子の作品については多く語られない、松田解子の文学の庶民的なよさは周囲の初歩的な文学愛好家のグループによい影響を与えているのにとの話がありました。この話は作家と作品と批評との関係にふれて面白いと思います。民主主義文学の批評の方法は、この話にあらわれているようなばらばらの点をつなぎ合せて民主主義革命に献身する大衆の共通な文化財、イデオロギー的武器とすることではないでしょうか。
 去年の大会でも云われた通り、それぞれの作家は、それぞれとしてかなりの仕事
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