の理解がロマンティック時代の解釈を脱しつつあった。
「千曲川のスケッチ」を単にその反映と見るだけでは不十分である。藤村は、生れつき周密、計画的である。詩から小説への過程を、画家における素描の勉強に等しい散文でのスケッチで鍛錬したことは、修業の方法の最も適当な道であったろう。明治のロマンティック時代の詩人の多くは後年の荒々しい自然主義の時代に散文家として立ち得なかった。藤村が日本におけるロマンティック時代の先達であって、しかもよく永く苦しい自然主義の時代を自己の文学的業績の集積によって押しとおし得た秘密は、案外にも、一つの小冊子である「千曲川のスケッチ」にこめられている作者の努力にかかっているのではないだろうか。
「千曲川のスケッチ」において、藤村は「雪の海」のような秀れた叙景をも試みているのであるが、この時代、藤村の自然の見かたは、どこまでも人間の日常生活との連関に発足している。抽象的な自然の観念で、憧れ、愁い、或はおどるこころの対象として天然の風景に身を投げかけることは、もうやめている。人間がそこで生れ、育ち、働き、老い、而して生涯を終る環境、地方風土としての自然をこまかく観察し、描いている。雪の降りよう、作物の育ちよう、そこに生える雑草や虫の生活を眺めることは、そこで暮している人々の生活にある様々の風俗・習慣等の観察からのびて行った目なのである。
 小説家としての藤村は明治三十八年(三十四歳の時)脱稿された「破戒」によって、立派な出発をした。「春」「家」「桜の実の熟する時」「新生」「嵐」、それらの間に「新片町より」「後の新片町より」「春を待ちつゝ」等の感想集をもち、十二巻の全集が既に上梓された。更に最近七年間の労作である長篇「夜明け前」は明治時代の文学の一つの記念塔として我々の前にある。
 藤村の自然に対する愛着、自然から慰安も鼓舞も刺戟をも得ようとする態度は、これらの全著作を通じて、特に感想集に横溢していると思う。
 この文章のはじめにふれたような幼年・少年時代の特別な境遇のために人に対して簡単に率直でない習慣がついたというばかりでもなく、父親であった人の性格をどこかうけついでいるらしくも思える藤村は、対人関係においては常に抑制したところのある人である。情熱がおりおり、この芸術家のそういう構えを打ちやぶった。それにもかかわらず藤村は、その破壊の跡を眺めるとき既
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