なったんですか」ときいた。
「ああ。あなたが見えていなかったんで、ちょっと私用を足して来たんです」
千鶴子は遂におかしさを辛棒出来なくなったらしく、水色の背中を丸めて室の外へ足早に出てしまった。道子は笑いもせず、全く我が目をうたがうように眼を見ひらいて豊岡の顔を見直した。この平凡な、下瞼にふくろの出来た五十ばかりの小勤人の鼻の下には、こうして今見れば紛うかたなき髭があった。しかも、全く千鶴子の云ったように一度見たら忘れられない下向きの、温良極りない大きな膃肭臍《おっとせい》髭がついている。――
道子にはこの二年間の自分の日暮しの感情に駭《おどろ》く思いが何より深かった。啓三が不自由な生活におかれるようになってから道子はここに働くようになり、二ヵ月前千鶴子が入る迄は一人で万事を負って働いた。豊岡なんかは男とも思わないというそんな思いあがった心持からではなく、てんから男だとか女だとか念頭に浮ぶだけのゆとりがなかった。自分で気のついていなかったほど一念こったこころでもって、毎日は朝から夜へと流れ動いていたのであった。
一時半頃から道子はテーブルの一番末席にいて、会議の要点をノートにとっ
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