なったんですか」ときいた。
「ああ。あなたが見えていなかったんで、ちょっと私用を足して来たんです」
千鶴子は遂におかしさを辛棒出来なくなったらしく、水色の背中を丸めて室の外へ足早に出てしまった。道子は笑いもせず、全く我が目をうたがうように眼を見ひらいて豊岡の顔を見直した。この平凡な、下瞼にふくろの出来た五十ばかりの小勤人の鼻の下には、こうして今見れば紛うかたなき髭があった。しかも、全く千鶴子の云ったように一度見たら忘れられない下向きの、温良極りない大きな膃肭臍《おっとせい》髭がついている。――
道子にはこの二年間の自分の日暮しの感情に駭《おどろ》く思いが何より深かった。啓三が不自由な生活におかれるようになってから道子はここに働くようになり、二ヵ月前千鶴子が入る迄は一人で万事を負って働いた。豊岡なんかは男とも思わないというそんな思いあがった心持からではなく、てんから男だとか女だとか念頭に浮ぶだけのゆとりがなかった。自分で気のついていなかったほど一念こったこころでもって、毎日は朝から夜へと流れ動いていたのであった。
一時半頃から道子はテーブルの一番末席にいて、会議の要点をノートにとった。それから、自分の直接責任である維持会員からの入金工合と、雑誌刊行の状況について、詳しく説明した。この四月以来紙代や印刷代が騰《あが》って写真の多い雑誌の経営は逼迫して来ているのであった。
協会の事業を縮小するか、逆に積極政策でのり出すかということが決定されるきょうは重大な会で、会計報告がされたとき、
「こんな小っぽけな団体で、人件費が案外かかっているんですな」
と云ったものがあった。ノートをとっていて道子は顔を動かさなかったけれども、覚えず呼吸が速くなった。雑誌の編輯全部をやって広告とりまでして、道子の月給は五十円である。それは貰いすぎているといえる金額であるだろうか。千鶴子は二十五円である。千鶴子を入れるとき、常任幹事は半分本気で、
「文化学院あたりの卒業生かなんかなら、手弁当でもいいっていうのが相当いるんだろう。一つそういうのをめっける位の手腕があって然るべきだね」
と云った。道子はそういう娘たちにタイプを打つのは少いからとがんばって、千鶴子を入れることを承知させたのであった。工場でも役所でも、きりつめるというと人件費に目をつける、そのことではここも同じなのであった。会長が創立五周年の記念に千円出し、更に維持員をつのることで、雑誌も続刊されることに決定したのは、六時近くであった。
今そこから彼等が出て来たうなぎ屋の数本の高い竹の葉が、夜に入って少しそよいで来た風に微かな葉ずれの音を立てている。パナマをぬいで、上着のふところへその僅かな街頭の涼風をはらませるようにしながら信一が昼間のままのなりで傍に立っている道子を顧みた。
「さて、――どうしますかな」
「お義兄《にい》さんは? 時間おあきになっているんですか」
「ああ今夜はひとつゆっくり話もしたいと思っていたから――同じことなら、じゃ河岸っぷちへでも出るとするか」
尾張町の角から、築地河岸の方に向って二人はぶらぶら歩き出した。おでこから頸のまわりへ真白く汗しらずを塗られた浴衣姿の小さい男の子が手に赤い豆提灯をぶら下げたまま、婆さんにおんぶされて涼んでいる姿など、いかにも下町のこの辺らしい。
事務所から疲れ切って道子は義兄と会食の約束があった竹葉へかけつけ、折角であった御馳走も今|漸々《ようよう》胸に落付いたような工合である。飯を食べながら信一は、啓三の留守の間故郷の田舎から河田の両親を東京へよび迎えて一緒に暮すようにしてはどうかと云った。
「こう云って来てもいるしするからね」
六十八になっている信輔の手紙を見せた。それには、道子にとっては思い設けないことに、もし我々二人の老人が上京することが道子どのの生活が落付いてよろしいと申すならば、よろこんで出京致すつもり云々と書かれている。
「そちらから何とかお手紙をお出しになりましたの?」
「どうもその方がよかろうと考えてね。あんたも一人じゃなかなか楽じゃあるまいと思うし……」
両親にたいして特別やさしい感情をもっている啓三が、親たちを呼びたいと云っていたのは二三年来のことであった。
「お呼びすることは啓さんも云っていたことなんだけれど――どうかしら――何しろ私は御承知のとおり朝九時頃からおそいときは夜まで外なんですものね、お年よりのお世話をして上げたくても、とてもまわらないので却って悪いと思うんですけれど……」
信一は、
「ハハハハ」と、闊達そうに白ズボンの膝をゆすって笑った。
「何もそう嫁さん気質を出さんでもいいじゃないですか」
「そういうわけじゃないけど」
小ぢんまりした素顔に道子も苦笑を浮べた。
「やっぱり私だっていらした
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