からには、御満足のゆくようにしたいと思うのは自然ですもの――」
「啓さんも、あっちへの手紙にそんな意嚮《いこう》を洩しているらしいよ」
「…………」
啓三は、単純な又それが当然である簡単さで、日頃から両親のものわかりのよさを語っていた。道子が独りで暮すよりは、
「朝も手だすけして貰えるし、つかれてかえればちゃんと食事の仕度を母がして待っていてくれるようだったら、君も疲れないですむだろうし、時間も出来てきっと勉強にも好都合だと思うがどうだろう」そう、道子への手紙に書いてもよこした。啓三の人物のこだわりなさがこの文面に滲み出している。そう思うとともに、妻である道子の感情には、おのずから啓三がそこに描いているとは違った内容を直感させる嫁としての現実が映って来るのであった。現在の日本の家庭で、その家の娘であるということと嫁であるということとの間には、決して同じでないものがある。しかもそのことをはっきり実感としているのが女だけだということは、何という気まずさや不便やけちくさいような困却があることであろう。道子にしろ、啓三にその気持だけとり立てては云えまい。
信一は、ちょっと立ちどまってチェリーに火をつけたりして、暫く自分ひとりの考えにこもって歩いている風であったが、やがて思い出したように、
「どういうことにしますかね、さっきの話は――」
小柄な道子の額のあたりへ視線を向けた。
「さあ、何しろ五年の間まるっきり別々な生活でやって来ているのですものね」
「だからなお今がいい機会とも云える」
「啓さんがおれば私何も心配はないと思うんです、お年よりがいらしったって。二人で今までより働いて、女中さんおけばいいんだから。今は、私一人でかつかつなんですもの」
「あっちは経済的にあんたの心配を受ける必要はいらんだろう」
道子は、不図思いついて少し皮肉に、
「じゃいっそお義兄さんのとこへおよびになったら?」
と云った。
「御長男でいらっしゃるし生活は立派に確立していらっしゃるし、一番よろしいわ」
「そりゃ駄目だ」
狼狽を語調に出して信一は早口に拒んだ。
「そりゃまずい。どだい、うちの奴とおっかさんとがうまく行くもんじゃない。両方を知っているからはっきり僕にゃわかっている――絶対駄目だよ」
「私とはうまく行くってわかっていらっしゃるんでしょうか」
ふーむと煙草の烟を目で追うようにしながら、
「君と親父とはどうかしらんが、母親とはまあうまく行くだろう。女同士が円滑なら家の内は丸く納ってゆくもんさ」
今両親を呼びよせろと云い出している信一の、総領としての世間体や気の弱い良人としての気働きが、案外のところに動機をもっていたのが問わず語りにわかったようで、道子は思わず、
「あなたのお考えと啓さんの考えとは、すっかり同じというわけでもないんですね」
勝気な気性を出して云った。
「御両親のためにお迎えするのなら私としてはお義兄さんに願うしかないし、もし私のためなら、私は一年や二年こうやって働いて、出来たら勉強もしている方が自由です」
「――啓さんは、じゃどう思っているのかね」
「啓さんには私の気持がわかっています。きょうも会って、話して来たんですもの」
「あんたの気持は、しかし、目下の場合贅沢じゃないか」
良人が不自由な生活におかれている間、勤めて自分の生活と良人の生活とを守り、勉強もしてゆきたいと希うはりつめた女の気持の、どこに贅沢があるのであろう。
「贅沢って――よくわからないけれど」
道子はそう云ったまま、河岸のコンクリートの杭にもたれた。同じ河岸の二三間さきのところに一台オープンにした自家用らしい自動車がテイルまで消して止っていて、柔かい桃色の装をした若い女が車の踏段のところに腰かけて涼んでいるのが見えた。わきにすこし離れて、白いシャツを夜目に浮立たせ、パイプを啣《くわ》えた男が立っていて、二人は別に喋るでもなく穏やかな親しさで河風にふかれている。道子につられて、信一も先の棒杭のところに片腰かけるような恰好で休んだ。そして、火のついたままの煙草の吸殼を河の面へ向って放ったりしている。
夜の水の深い匂いや、聴えるか聴えないに石垣を洗っている潮ざいは、だんだんに道子の神経をなごました。型にはまった男の気持から、弟の妻までを所謂《いわゆる》留守を待つ妻として垂れこめて暮させたがっている信一。しかもその気分に托し絡め合わせて本来なら自分の家庭へ引きとらなければならない筈の老父母の世話までを、体よくこの際弟嫁にまかせられたならばと思いついたりしている兄夫婦のこせついた生きかたを考えると、そういう打算を知らない心で、家族の者に善意だけを向けて考えるしかない境遇におかれている良人の啓三が、道子に一層いとしく思われるのであった。遠い川上の方から両舷とマス
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