一人の若い女に縫って貰っている最中だのに、
「あ、ちょっとすみませんが願います」
と気ぜわしく呼びとめ、前のひとが赤糸の丸をしごく間ももどかしそうに、
「おねがいします」
と二足ばかり小走りによった。
 道子は、ハンドバッグを腋の下へ押えこんだ不自由な手頸の動かしかたで縫いながら、
「御主人ですか?」
と訊いた。
「ええ、そうなんですよ、あなた。子供が三人いるんですよ」
 真岡の袂でのぼせあがっている顔をふきながら、おかみさんは、
「すみません」と礼を云った。
 省線の窓からも、号外売りが腰の鈴をふりながら、街をかけて行くのなどが見下せる。道子のとなりに腰をかけている若い二人づれが、自分たちの興奮を気軽さにすり代えた高調子で頻りに喋った。
「小田さんところへ禁足命令が来たってじゃないか。そろそろ僕らの順だぜ」
「出るとなりゃ、ピストルを買わなけりゃならないね、一体どの位するもんだい」
 今はもうそう汗が出ているというのでもなかったが、そんな会話をききながら、道子はいよいよ小さく堅くかためたハンカチで頻りに顎のあたりを拭いた。
 道子の働いている医療機械雑誌関係の用で、或る外科の大家を訪問したとき、時節柄千人針の話が出た。千人針を体につけていて弾丸に当ると、弾丸はぬくことが出来ても、こまかい糸の結びの目と布とが傷の内部にくいこんで危険だということであった。人間の腕力だけでふるわれた昔の素朴な武器にふさわしいそういうお守りを、今日もやっぱり縫って、せめては身につけて行かせようとする家族の心持というものが、道子に惻々と迫って来て、それがただ心持の上だけのものとなっているだけ一層切ない街上の風景なのであった。
 新橋駅の北口から、道子は急いで地階はモータア販売店になっている事務所の階段を三階へのぼって行った。広告をとりに歩く時間を利用して、道子は良人の面会もしているのである。葭簀《よしず》のドアをあけて入ると、二つ向いあった一方のデスクの前で、今年女学校を出てタイプの講習を終ったばかりの千鶴子が、いくらかたどたどしく維持員名簿をうっている。道子は、
「おそくなりました」そう云いながらベレーをぬいで壁の釘にかけ、すこし気づかわしげに、
「もうあと何枚ですみます?」ときいた。
「もうこれでおしまいですの」
「それはよかったわね。――どなたか来ましたか?」
「いいえ」
 水色のワ
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