る気持、それが錯綜するのである。きょうは、何かそういう気持のからみ合いがきつく感じられた。
大通りの古着屋の前に停留場がある。道子はそこから麹町の勤めさきへゆくに便利な省線の駅までバスにのった。駅前で降りると、折からストップになった四辻のプラタナスの街路樹の下にセイラア服の女学生が四五人かたまって、
「困っちゃったわねえ」
「あのひと覚えてやしないわよ、だから嘘ついたと思われちゃうわ――やだなあ」
などと云いながら、ピケの白い帽子をおかっぱの頭からぬいで、当惑そうにむこうを眺めている。視線の先は駅の入口で、そこには乳呑子を背負った二人の中年のおかみさんが、必死の面持で通行人をつかまえては、鬱金《うこん》木綿に赤糸で千人針をたのんでいるのであった。
「一人だっておんなじ人が縫ったら駄目になっちゃうっていうんですもの――」
その女学生たちは、ゆきに同じ処でそのおかみさんの千人針を縫ってやったものらしい。帰りに同じひとがまだいる。又たのまれたら二度一人が縫うことになるし、断れば信じまいと、真面目にこまっているのであった。七月このかた、市中の人出の多いところは到るところで千人針がされていた。両国の川開きのなぐれで、銀座が押すように雑踏していた晩、道子が社用でその間を擦りぬけながら通っていると、新橋の方からバンザーイ、バンザーイという叫びがだんだん近づいて来た。見ていると一台のバスが、日の丸小旗を手に手に振りかざして窓から半身のり出しバンザーイと叫んでいる女車掌を満載して、疾走して来た。ああ、職場から誰か出征するのだ。背筋を走る感動とともに道子がそう思った瞬間、紅をぬった口々をあけて声を限りバンザーイと舗道の群集の流れに向って叫んで行く婦人車掌の間に挾まれて、軍服を着た若者が、手の小旗を振ろうともせず、騒ぎに包まれてぼんやり無意味な善良な微笑をたたえて立っている姿が目を掠めた。その男の呆然としている顔の上を、夏の夜の色々なネオンの光りが矢継早に走った。間をおいて、もう一台バスが同じような叫びを盛って上野の方へ走った。バンザーイと亢奮した声の嵐と小旗のひらめきの只中で、ぼんやりした微笑をこりかたまらしていた若者の顔を、道子は容易に忘れることが出来ないでいるのであった。
赤坊を背負ったおかみさんは、気のたかぶっている眼の端に道子の来かかる姿をとらえると、自分の手を持ちそえて
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