く制定されてはいても、実際の生活においては、物質的、精神的により豊かな者、力強い者に、殆ど無条件で蹂躙《じゅうりん》され、屈服させられなければならない人々が、到るところに満ちているではないか。
 卑怯な、卑劣な弱い者|酷《いじ》めが、公然と行われているのに、自分はどうして、平気でその仲間入りをしていたのだろう。
 彼等も人であり、自分も人であるのに、一方が一方を虐げるのが、どうして正しいことだといえよう。
 彼女は、忘られない印象を自分の心の上に遺して行方も分らず去った、或る一人の労働者の姿を想い浮べた。可哀そうだと思いながら、記憶から薄らいでいた、一人の少年を思い浮べた。
 それ等の皆、泣いていた人々、自分が悲哀に打たれ、泣くことさえ憚るようにしてひそやかに啜泣いていた人々。
 慰めてのない彼等の苦痛、軽ぜられていた生命の歎息が、無限の哀愁のうちに、ひたひたと迫って来るのを、彼女は感じずにはいられなかった。
 破れた、穢い穢い上衣の肩の上に垂れて、激しく痙攣《けいれん》していたあの青い顔、深い溜息。
 彼女は、記憶の中のその人に向って、
「泣くのはおやめなさい。しっかりおしなさい。一
前へ 次へ
全62ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング