まで養われた道徳意識の影響と、今まで続いて来た生活の形式の反動との力を集めて或る次の一点へ徐々に彼女を動かしていた。
 自分ばかり凝視していた彼女の眼は、そろそろと自分より不幸な、より惨めな、そしてそれ等に対して、自分が無関心であったのを恥かしく思わずにはいられない一方面に転ぜられ始めたのである。

 不当な圧迫や、服従の強制に対して、絶えず不満を感じていた彼女が、自分よりもっともっとそれ等の堪えがたいあらゆることに堪えて、物質的にも精神的にも劣者の位置に甘んじていなければならない者に心附いたとき、どのくらいの同情に打たれたことであろう。
 そして、それ等の気の毒な人々に、自分も知らず識らず圧迫を加え、強制を加えて、まるで知らないでいたことにいかほどの悔を感じたことであったろう。
 自分は仕合わせに、不正だと思ったことには、どこまでも対抗して行く力を与えられている。その反抗に対して機嫌を損じる者があれば、いくらあっても、自分はちっとも恐ろしくはないと思っていられる。けれども……。彼女はほんとに興奮せずにはいられなかった。
 生命を権利も、それがたとい法律では保護され、飽くまで主張し得べく制定されてはいても、実際の生活においては、物質的、精神的により豊かな者、力強い者に、殆ど無条件で蹂躙《じゅうりん》され、屈服させられなければならない人々が、到るところに満ちているではないか。
 卑怯な、卑劣な弱い者|酷《いじ》めが、公然と行われているのに、自分はどうして、平気でその仲間入りをしていたのだろう。
 彼等も人であり、自分も人であるのに、一方が一方を虐げるのが、どうして正しいことだといえよう。
 彼女は、忘られない印象を自分の心の上に遺して行方も分らず去った、或る一人の労働者の姿を想い浮べた。可哀そうだと思いながら、記憶から薄らいでいた、一人の少年を思い浮べた。
 それ等の皆、泣いていた人々、自分が悲哀に打たれ、泣くことさえ憚るようにしてひそやかに啜泣いていた人々。
 慰めてのない彼等の苦痛、軽ぜられていた生命の歎息が、無限の哀愁のうちに、ひたひたと迫って来るのを、彼女は感じずにはいられなかった。
 破れた、穢い穢い上衣の肩の上に垂れて、激しく痙攣《けいれん》していたあの青い顔、深い溜息。
 彼女は、記憶の中のその人に向って、
「泣くのはおやめなさい。しっかりおしなさい。一
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