の故と否定的に総括されていた。けれども、果してそれだけで、現実のいりくんだ関係が云いつくされているだろうか。男の作家の社会性の積極さということもむずかしい問題であって、あの波この波にすぐ反応を呈してそれに吸引されるままになったと云うことを指しているのでないことは明かなわけである。単純な適応を積極性と呼ばないとすれば、自身の芸術境に忠実であろうとする作家、例えば川端康成というような作家の本年度の芸術が、ゆたかな社会性に充たされていただろうか。武田麟太郎の作品が社会性において一歩をすすめ得ていたであろうか。
婦人作家が社会性を欠いているとして、そういう作品が文壇にある評価をまきおこしたとすれば、文学の問題としては、そのことに於てやはり男の作家の今日の文学の社会的な実質とも直接かかわっていることだと思われる。婦人作家のそういう存在でさえも何かを文学にもたらしたように思われたのならば、その意味では男の作家の文学も、日本の今日の同じ空の下の低さにおかれているというわけではないだろうか。文化の姿としてその点での大局からの究明がされてこそ初めて男の作家の社会性のひろさ、確さも云い得るのである。それ
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