うことに於ては一つなのだろうと思われる。従って、文学批評の貧困が云われる時代に、文芸作品が文学の真の発展の意味で興隆しているという現象は、社会的にあったためしがない。プロレタリア文学を歴史の上に顧みて、或る人は今日では殆ど十年を経たあの時代には、作品そのものより批評、評論の活躍が著しくて、謂わば文化の分野に溢れているその評論活動に保護されて作品が評価をたかめられているような傾きがあると云っている。その評の当否は簡単には云えないけれども、もしそういう傾向が見られたとして、それはその頃の一般の生活意欲がどんなに創造的なものを求め、それをうち立てて行こうとする熱意に満ちていたかという事実を如実に語っているのだと思われる。生活そのものに生新溌剌な意欲が漲って、文学でも新しい境地の開拓が自然に人々を誘っているような時代、批評の精神も沈滞していよう筈はないのである。
 時代によって、人間の善意の表現も極々の転形を示すのだが、今日私たち日本の文学の成長の可能は、どんなところにかくされているのだろうか。
 誰にでも目につく一人の作家の例について考えると、例えば火野葦平という作家が「糞尿譚」から「麦と兵
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