て、女として心から表すべき遺憾の感情を喪っている。自分の主観のなかで甘えると、知性は忽ち痲痺してしまうところを見れば、知性というものの本質は健啖であって、ひろいつよい合理的な客観力を、養いとして常に必要としていることも理解される。
 今日の日本で、そして女のひとの生活のありように即して、知性が云われるとき、私たちの心は一口に述べつくせない感想にみたされざるを得ないと思う。知性をゆたかならしめ広くつよくあらしめる条件が今日の社会にあって、婦人の知性の目覚めが云われているのか、それとも男が先立ってゆくこれまでの世の中のありようの野蛮さに対して婦人の知性が再び考慮にのぼって来ているのか、そのいずれなのだろうか。
 日本で婦人の知性が云われる場合、永い歴史が今日までそのかげを投げている独特な習俗によって、知性の本質に対する解釈もおのずと変形させられて、活溌な、動的な、時には破綻を恐れず荒々しい力で新しい人生の局面をも開こうとする面はとかくうしろに置かれ、受け身な物わかりよさ、昔ながらの諦めをシモーヌ・シモンの髪かたちめいた現代の表情で表現するという風な範囲に、きりちぢめられている危険はないと云
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