いる眼の明晰さが、最も美しくあらわれている作品だと思う。オオドゥウの、そのままで一つの物語をなしているような生涯がそれだけで彼女にあのような作品を書かせているのではなく、物語のようでさえある生活の様々の推移の場面で、彼女がそこに何を感じ、何を身につけて生きて来たかという、その生きかたの窮局が、彼女に彼女にしかない生活のみのりをもたらしているのである。

 どんな人でも、日々の暮しというものはもっている。だが、それが生活と呼ぶにふさわしい内容を持っているかどうかという点を省みると、そこに知性の問題があるのだと思われる。
 生活のなかで試され、鍛えられつつ生活にその力を及ぼしてゆく人間の知性は、普通なものであると同時に各々その人々に属した動的なものでもあるから、その人としての知性の限度が現実の或る条件のうちで負けることもまれではない。例えば、すぐれた生きてであり芸術家であったオオドゥウでさえも、最後の作品「光ほのか」のなかでは、彼女の知性が人生における一つの味、哀憐の趣というようなものへの傾倒のために弱められて女主人公「光ほのか」が、自分の生涯にかかわる愛さえ正当には守れなかった瞬間に対し
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