男女交際より家庭生活へ
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吻合《ふんごう》
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(例)相|偕《とも》に
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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先頃の『弘道』に掲載された「日本人の理想に吻合《ふんごう》しない西洋人の家庭生活」と云う記事を読み、種々な感想の湧上るのを覚えました。
全篇の結論として、目下問題とされている家族制度、家庭生活改善の理想を徒に外国の風習などに摸倣せず、日本は日本民族独特の見地から、識見を以て発足すべきであると云う主旨には、恐らく何人も意義を挾む者はないでしょう。
あらゆる国々の習俗には、悉《ことごと》く美点と欠点とが並行しています。人間が、或る場合自己の天分によって却って身を過つことがあるように、一国にしても、或る時には、その是とすべき伝統的習俗によって、却って真実な人間的生活に破綻を生ぜしめることが多くあります。それ故、徒に新奇を競うて、外国人の営む生活の形骸を真似るのは、全く笑うべく悲しむべきことです。
併し、一国の文化、社会状態を観察した場合に、何時も、その裏面、消極的方面のみに注目するのは、果して妥当な態度でしょうか。
他人の話を聞き、他人に会い、その言動の裡から欠点ばかりを摘発するとしたら、結局自分は、今在るだけの自己を肯定するばかりで、何ら新らしい利益を得たことにならないのではありませんか。同様のことが、外国旅行者にも云えると思います。
その上、日常生活はまるで日本とは違い、言語まで、その微妙な点で自分達の持合わせた感情とは異った内容を含蓄しているような場合、先ず、変なこと、妙なことの方が、一般の地味な社会生活の基礎よりは目立って見え、注意を牽くのは当然です。一寸見た場合、完全な顔の道具だてを持っている者よりは、大きな痣でも頬にある者の方が人目を欹《そばだ》てしめる。けれども、それが人類に与えられた顔として典型的なものであると云う人はありませんでしょう。
修辞上の効果から云えば、自己の主張し肯定しようとする一方のものを引立てるために、それと対照する他の一方のものを強調して描くのが賢い方法であるかもしれません。
併し、或る国の社会状態を紹介し、批評し、未だそれを直接見聞したことのない人々にも、思索の材料として提供しようとする場合、講演者なり、著者なりの眼の着け処は、真に大切なものではないでしょうか。
最も、公平でなければなりません。美しい方面も、非難すべき方面も、共に見て、その間に横《よこた》わる美なる理由、非とすべき理由を研究しなければならないものではあるまいかと考えるのです。
例えば、外国人の著書に屡々《しばしば》欧米の婦人運動、又は女性の社会に於ける位置の進化というものの研究材料として、東洋、多く支那、日本のそれを例に引く場合を考えて見ましょう。
彼等は、日本の婦人が全く奴隷的境遇に甘じ、良人は放蕩をしようが、自分を離婚で脅かそうが、只管《ひたすら》犠牲の覚悟で仕えている。そして、自分の良人を呼ぶのにさえその名を云わず“Our master”と呼ぶ、と云ったと仮定します。
これを見た日本人は、恐らく、一言を付加せずにはいられない心持が致しましょう。
勿論、日本にもそんな無情な良人がないことはない。けれども、決して、一般の日本婦人の状態だとは云えない。寧ろ、そんなのは少数の例外で、多くは、良人は妻を扶け、妻は良人を扶けて相|偕《とも》に生活している、と云いましょう。英語に直訳すれば、まるで何だかよそよそしい、卑屈な響になって仕舞うが、日本の女性が良人を、「宅の主人」と呼ぶのは、決して、奴僕《ぬぼく》が雇主を指して云うような感情を持ってはいない。丁度、英語を喋る国の女が、自分の良人を第三者に対して話す時には、ミスター・誰々と姓を呼ぶ、それと共通な心理なのだと抗議を申し込むでしょう。
言語、習俗が著しく異った場合、斯様な誤謬は起り易い。而して結果としては、双方が見出すべき大なり小なりのよい発見を失って仕舞うのです。表面的の事象から先ず反撥心に支配されて、深い生活の内面、或はよりよい事実を見失うのは、どんなものに対しても、我々の執るべき態度ではあるまいと思わずにはいられないのです。
「日本人の理想に吻合しない西洋人の家庭生活」を読み終ってから、私の心に起ったものは、世の中は見様で何と云う相違があることだろう! と云う驚きでした。例としてあげられた人々、場合は、勿論ありますでしょう。まして、私の狭い見聞は、米国の、而も紐育《ニューヨーク》市附近の知識階級に限られていると云ってよろしいのですから、フランスは勿論、他の国々のことに関しては、謹んで言葉を控えます。けれども、アメリカの風俗も彼等の為に弁護する為ではなく、我々が常識として或る社会の生活を余り偏した一面のみで知っていることは、如何にも反省すべきことと感ぜられます。米国なら米国の社会が現存し、我々と直接間接に交渉を持っていると云う事実は、決してリディキュラスな話で終ることではありません。「人によって見方も違う」と云われた一例として、私は自分の周囲に見聞きした事柄から綜合した観察を述べ、又、違った角度から見た事実を述べて見たいと思います。
我々が、種々な社会状態、生活現象を観察する場合、先ず予備知識として頭に入れて置かなければならないのはその社会が、どんな個人によって形成されているかと云うことだと思います。
総体として如何なる気質の人間の集合であるか、箇々の箇人は、その根柢に於て如何なる国民性の上に生存しているか。
現象は、内に、原因を持たずに現れるものではありません。或る人が何か善行をする。或る男が破廉恥な罪悪を犯す。その善行なり、悪行なりの素因を万人は彼等の心事に見出そうとするように、私共が、或る国民の生活を観察する場合、漠然となりとも正鵠を得た、民族的気質を知らなければいけないと思うのです。
それなら、米国人は、どんな気質、性格を持っているでしょうか。
先ず、彼等が箇人主義的な生活をしていると云うことは誰でも申すことです。又、独立的気風に富んでいること、公衆道徳の進歩した国民、終りに驚くべき物質的であると云うのに、恐らく皆の意見は一致しますでしょう。
如何にも米国人は箇人主義的な国民だと思います。独立的で、同時に今度欧州の大戦に参加してから彼等自身をも驚かした程の一致力を有し、各自が利害に明かで、着々と得るべきものは精神、物質両面ながら獲得して行きます。
けれども、ここに考えなければならないことは、米国人は、箇人主義と云う一つの主義の上に、意識して彼等の生活を築きあげたのでもなく、又、独立的であるべきと云う道徳的訓練の後に、今日の気風を産み出したのでもない、と云うことです。
箇人主義と云う思想上の一名詞が考え出されない以前から、既にアメリカ人の生活は、箇人箇性を基本に置いたものであった。アメリカが植民地時代から、独立的気風は各人の内心に燃えていた。それは、遠い昔、政治的思想的に紛糾を重ねた欧州の故国を去って、未開の新土に生活を創始しようと覚悟した程のものは、皆、何等かの意味に於て、強い箇人の自覚と、何物にも屈しない独立心を備えていたからなのです。
アメリカと云っても、往古の状態は、決して今日我々の知識にある米国ではありませんでしたろう。今はもう人数も減り、圧迫されて仕舞ったアメリカン・インディアンが到る処に生活していました。畑と云う畑もなく、都市と云う都市もない。フランス、スペイン等の各国が、おのおの土地開拓に努力している。
まるで、私共が、急にアフリカの真中にでも移住したように、絶えず生命の危険に脅かされ、自分の手一つの力で衣食住の要求を充たして行かなければならない場合、人は怯懦《きょうだ》でいられましょうか、他人により縋っていられましょうか。
日本のように温和な自然に取囲まれ、海には魚介が満ち、山には木の実が熟し、地は蒔き刈りとるに適した場所に生きては、あの草茫々として一望限りもない大曠野の嵐や、果もない森林と、半年もの晴天に照りつけられる南方沙漠の生活とは、夢にも入るまいと思われます。恐ろしく狂暴な自然に抗しながら、健気《けなげ》に良人を扶けて、家を守り、殆ど生命を賭して子を育てる女性に対して、如何なる男性が侮蔑の声を発せられましょう。
一朝、野蛮人の襲撃に会えば、彼等は、只、彼等の団結によってのみその敵を防がなければならない。一都市の政治的、商業的問題を本国と取定める場合には、誰か、彼等の信任する一人を、あらゆる舌、あらゆる心の代表として選出しなければならない。共和政体は、合衆国が独立を宣言するより以前から、その胚種を持っていたのではないでしょうか。
困難に困難を忍びながらも、腕さえあればこれだけの収穫は見出せる! 幾エーカーと云う耕地に、小山の如く積みあげられた小麦の穂を眺めて、彼等は思わず誇りに胸を叩いたでしょう、その心持は察せられます。今日、彼等の社会を風靡していると云われる物質主義、精力主義、並に実利主義は、未開の而も生産力の尽くるところを知らない自然に向って、祖先が、本能的に刺戟された一方面の発育であると云えるのではありませんでしょうか。
源泉は遠い遠い彼方迄|遡《さかのぼ》る、深い真実な人間生活、圏境の裡から湧き出している、それ故、まるで過去の歴史と、開国以来の国民的性格の異った私共が、軽々しくそれ等を批判することは出来ません。その真によい処も悪いところも、傍から考える[#「考える」に傍点]よりはもっと密接に、彼等の生活の髄まで滲み込んでいる訳です。第三者から見ると、どうして、ああかと思う程、自然に、身について或る一特性が善用されているかと思うと、その一方では、何故あれが看過していられるだろうと思うような矛盾が、当然のことのように行われている。そこに、我々が或る国民の生活を観察するに、先ず正しい、広い人類的理想主義の立場から眼を放つことを要とする理由が在ると思われるのです。
大略、右のような背景の上に現今の米国人の生活が営まれているとすれば、広くは大統領と国民との関係、狭くは、親子、夫婦、雇主対被雇人の関係に至るまで、何等かの形式を通じて、これ等根本の性格に帰着するのは、自明な事実ではありませんでしょうか。
私は先ず、相当な年齢に達した二人の青年男女に眼をつけましょう。そして、彼等の生活に対する態度、恋愛、結婚に対する見解、並に、親子の感情、生活を追究して見ようと致します。
若し、東洋の女性が不当に圧迫せられ、退嬰した状態を、男尊女卑と云うならば、確に西洋の人間は、女尊男卑であると云えましょう。まして、米国人は、その点を、特に強調して伝えられていると思います。
過去に於て中世の騎士気質《ナイトフッド》の伝統を受けている上に、彼等は冒険的な新生活に踏み込もうとするに当って、如何なる危険をも物ともせず随伴して来た女性に向っては、一層深い敬意を抱かせられました。信仰と希望とのみに頼って、勇ましく新天地に活動しようと云う、その雄々しい決心のみでさえ、男性を鼓舞するのに充分であったのに、いざ曠野での生活が始ってからは、勇ましい一人の人間として、頼らず怨まず自己の職分を尽して行く。あらゆる困窮の裡にあって、変らぬ助手とし、友とし、愛人として暖く男子の生涯を護った女性に、彼等祖先は、真個のノストラ・マーター(我等の母)の永遠性を感得せずにはいられなかったのです。まして、その時代には、移住した男子の数より遙に女性のそれは少なかったでしょう。
それ故米国に於ける原始女性尊重の真意とでも云うべきものは、婦人を実力に於て認め、人格価値の上からは半歩も男子に譲るものではないと云う事実的な結論に加えて、彼等一流の光彩あるロマンティ
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