ックな輝を添えたものであったのです。
斯様な社会状態は、長年の間に、他国に見られない女性の自由な発達を遂げさせました。天分があり、才能があり、而して意志のある者なら、自分の望む限り、学術研究に携っても実務に就ても発展することが出来る。完く一箇の自由人、独立人として何者にも制せられず、天職と自覚した方針を戴いて何処までも努力出来ると云う事実は、一般女性の胸に小気味よい覇気と、独立心とを育てました。
娘は、先ず東洋のように妻になり母になるべきものと云う概念を植付けられる前に、人として如何に生活すべきかを考えさせられます。あらゆる箇性の天分を涵養することを以て主眼とする学校教育は、彼女に希望を表現するに適当な手段方向を教えましょう。純正な宗教観から見れば、とかく云うべきことはあっても教会は、徒に狭い階級的、種族的生活からは一段高く、人類の心から人生を観ることを説き聞せ、友達となる男子は、彼女の裡に尊敬すべきもののあるのを予期した態度で幼年時代から交際している。
只、女と云う魅力、愛嬌、又処女としてのしおらしさなどは抜きにしても実際彼地には、一箇の人とし、女性として、心から男性に帽を脱せしめるだけの識見、実力を具備した婦人が少くないのです。
若し、米国の幾千万の女性が右のように完美なものであったら、勿論、男子が払う尊敬は正当であり、当然なものでしょう。然し、そうばかりとは、決して云えません。寧ろ今日の状態では、女性尊重を極度に俗化し、空虚な習俗として全然心ぬきに実行している者と、改めて習慣となったこの風を反省し、それに適当な制限をつけるのを正しいと認めている者との、実際上の対立となっていると思います。
始めは、真心から発した感情の表現も、時を経実感が失せた時には、空疎な仕来《しきた》りとなってしまいます。その上に生ずる蛆が出来る。現在米国でも、相当の知識階級の、青年男女は、殆ど滑稽な外観のレディファースト(婦人第一)を決して誇ってはいないのです。
彼等はもう、実際人として尊敬するには塵ほどの価値もないような女が、只、風俗を利用し、婦人を冷遇する男子は、紳士として扱われないと云う異性の弱点につけ込んで、放縦な、贅沢な寄生虫となっている厭わしさを見抜いています。
又、腹の中では舌を出しながら、歓心を得ようが為許りに丁寧にし、コンベンショナルな礼を守り、一|廉《かど》の紳士らしく装う男子に祭りあげられるのは、女性として如何に恥ずべきことか、と云うことも知っています。正当以上――過度に、尊敬、優遇されることは却って一種の屈辱であることを、真実な若者なら知っています。
それは、工場に通う女工のような者の中の幾部分や、小僧の幾部分かは、互の遊戯的気分から、わざわざ人中で靴の紐を結ばせ、結ぶような衒《てら》いをしますでしょう。然し、完全な四肢を与えられた者が、自分で自分の足の始末も出来ないでどうしましょう。又、そこまで身を曲げることも出来ないように高く堅いコーセットを胸に巻きつける必要が何処にありましょう。若い、健康な胸は、そのままで美しいのです。恐らく、彼女等の言葉も、私の書くと同じものであると信じます。
故に、少くとも、高等学校《ハイスクール》以上大学に学ぶ位の若い男女の間は、公平、公明であると云う理想によって結ばれていると云っても誤ってはいますまい。
教室や学生の倶楽部や、宴会によって、種々な異性同士が紹介されます。喋ったり、遊戯をしたり、一緒に舞踏をしたりして、多数の中で先ず交際が始ります。種々な傾向や種類の人中で自ら他と比較すれば、彼、或は彼女が、どんな性格、傾向であるか漠然とでも予測がつきましょう。
彼地のように、会合と云えば極特殊なものでない限り必ず男女ともに参集する処では、我国で、恐らく女同士、男同士あい、知人になるような気持で、知人は双方にいくらでも出来ます。けれども、互にその家庭に招き合ったり、一緒に一団となって饗宴に出たり郊外に遊んだりするようなのは決して誰とでも、と云うことではなく、異性の交際が自由であり普通である丈、相互に強い好き嫌い、選択が行われる訳なのです。
その選択は、これならばどう云う標準によって行われるかと云うことになります。
好きな友達、嫌いな友達は、何で分れるだろうか。勿論、各人の趣味、専門の方向によりましょう。根本は性格に因るとしても、そこに一貫した共通点は、男子ならば、何より先ず、婦人に対して決して卑劣な言動をしない事が、条件となります。
女性としては、貞潔な、己を高く持した朗かさを持たなければなりません。
人格を見抜く力もなく、頭もなく、ちやほやされるままに気位なくあちこちと浮れ廻る娘は、只一人の真友も持ち得ないと同時に、女性に対して無責任、或は破廉恥な挙動をした者は、忽ち、友達仲間から除外されます。
相当な面目を保った異性間には、何よりも潔白が重要視されます。友達は、飽くまでも友達です。而も、その友情が異性間に於ける場合には、自ら、同性間より微妙な節度と云うものがあります。決して、現在、日本で若い男女間の所謂交際と云うもののように、妙に陰翳があり、感情的で、危いものではありません。
通り一遍の知人である男子と、第三者を加えず物見遊山に出かけたり、夜会に出たりすることは、正しい身持の娘なら決して仕ないことです。友達でも、或る年頃までは三人以上。二人きりで度々行動を共にするのを見れば、人はもう相互が愛人の関係にあるものと見、他の多くの異性の友人は、或る程度までの遠慮をするのが礼となっています。
若し右のような不文律がなければ、交際社会に出た許りの十七八の娘は、如何程危険に曝されなければならないか分りません。どんな男性が、どんな心情を抱いて接近して来るか、日本などより遙に多い危険が、女性自身の矜持で防止されているのです。
斯様にして交際しているうちに、多くの異性の中には、特に自分に興味を持ち、真実を抱いて来る者、又自らも抱く者が見出されて来るのが自然でありましょう。十人十五人の中では、先ずあの四五人が、真個に自分とは話も合い、心持も調和する。そう、あの四五人の中では――誰と、次第に時[#「時」に傍点]が選択を進めます。そして、何時とはなく、双方がより多く会う機会も持ち、より深く知り合い、愛敬し合い、愛人となる場合が多いのです。
人間が真実に一人の異性を愛した場合、結婚は次に来る最も自然な結果だと思います。自分のこれ程愛する者と、どうかして共通な、心も身も団結した生涯を送りたい。愛する者ともろともに[#「もろともに」に傍点]生きたいと云う切な願が起った時、人間が人間である間は、結婚ほか道がなく思われます。自分の愛も深まり、相手の婦人の愛も知り得て、始めて男子から、求婚を申し出ます。それに、諾、否を与えるのは、最後の女性の自由権です。多くの場合、彼女は同じ幸福に輝きながら手を与えるでしょう。けれども、又、多くの場合、種々な問題も起って来る可能があります。結婚は一生の大事です。互が、最も希望と将来の光輝とを期待することである丈、種々に考慮しなければならない点が、実際問題となって起って来ます。それによって、幾年かの婚約を先ず予備するもの、或は、双方の重要な条件が相容れないためもう最後の一歩と云う点で失望に終るもの等、一方、軽々しく、まるで小荷物の郵送でもするような結婚があると思えば、他方には、苦しい、深刻な場面が展開されているのです。
例として、或る一対の若者を見出しましょう。彼等は互に愛しています。結婚すれば、自分達がより楽しく、より笑顔多く生活出来ることは分っているけれども、夫妻の生活を安全に支えて行くだけの収入が、男性の方にない。或は、まだ学生生活をしている。若し、彼等が親となった時、その子に完全な扶養を与えることが出来ないと云うような場合、如何に若くても、彼等が社会生活に訓練されていると感心することは、斯様な時にも、決して、無思慮な行動に出ないことです。
先ず、男が相当な地位に上るまで、或は職に就き得るようになる迄、互に確かな婚約を守って待っている。傍《かたわら》、女性の方も、学校の教師になるなり、事務所に務めるなり何なりして、力相当の蓄積をする。そして、二年なり三年なりの後、安全な基礎に立って生活を始める。日本の風習では、そんな場合、何故、娘なり息子なりの両親、同胞が助けないか、と云う質問、何故、僅かの間、良人の両親の家に起臥《きが》は出来ないのか、と云う疑問が起るかもしれません。
助けないのは、薄情からではない。親も、若い者達も、自分達の生活を、他人の厄介で営むような恥かしさには辛抱が出来ない。我々[#「我々」に傍点]が結婚するからには、我々[#「我々」に傍点]で生きて行くのだ、と云う、確信があるからなのです。非常な富豪とか、又、一部の交際社会、所謂派手者の間では、親から財産を分与され、二十一で、お雛様のような結婚をする男もないではありません。
けれども、多数を占めている中位の青年男女は、結婚の問題が起った時、果して自分等は自立して、一箇の家庭を営み得るか否かと云うことを考えずにはいないのです。幸、女子が何か職業を持ってい、その収入と合わせれば、優に二人の生活は保障されると云うような場合、事は容易に運ぶかもしれませんが、婦人が左様なものも持たず、又結婚後、家庭外に職業を持つことなどをよしとしない意見を捨てない女性であったりした時には、男子は苦しい思を抱いて引下らなければならないようなことにもなるのです。
米国のように、生活の緊張した場所では、最も右のように経済的事情が、若者の難関となることが多いでありましょう。けれども、又異った故障が起ることがある。それは、或る研究なり、職業なりに従事している婦人が、或る異性に愛され、愛した場合です。彼女が、結婚生活に入る迄の仕事としてそれに対してい、結婚と同時にそちらは全然第二義? どうでもよいものにして仕舞う積りでいるのならば難かしいことはありません。日本の生活とは違い、交際も多く、用事も多いながら、建築や、日常風俗の影響から、一日に少くとも午後数時間の余暇は持ち得るあちらの生活では、遣ろうと思えば余技的な研究はいくらでも出来ます。その時間を利用して仕事を持続する丈で満足と思う人ならば簡単です。けれども、或ることを自己の天職と思い、たとい如何に愛を得、幸福を得るとしても、決して、その仕事には変更を与えたくない、それを主にして行かなければ到底安らかに生きられない、と云う時、彼等の間には、真面目な相談が起らずにはいないのです。
彼等は、若い愛人同士とは思われない程落付いた綿密な態度で、家庭生活のプログラムを議し合うでしょう。
第一、充分な時間。第二、研究なり仕事なりを実行するに是非必要な精力の経済。これ等が微細な実行問題となっては、種々な部分と、方法とに岐れます。これ等の、相互の生活が結合しないうちは何にも影響のないことであって、いざ一家を持つと種々な面倒や感情の齟齬《そご》を来しそうな点について、出来る丈精密な熟議を凝します。男子も同様な方面に働く人なら云うことはない。然し、そうでなく、或る程度までの趣味[#「趣味」に傍点]位に相手の仕事を見ていた者は、ここで、最大の決心をして女性の要求を拒絶しなければならないか、その深い広い愛で、悦んでそれを承引し得るかと云う境に立たなければならなくなって来るのです。斯様な立場では婦人も苦しみます。けれども、若し男性が、その時一時の気の毒さや興奮から、それを肯《うけが》って、却って後に不幸を招くようなことをするよりは、静に考え、寧ろ結婚するよりは、友達として平和な交際を続けることを勧めるほかないことさえあります。
斯様に、全く自己の選択と意志によって一旦結婚してからは、彼等夫妻の関係が、真個に強い堅いものになるのは当然でありましょう。愛人とし、友として相互に見出した唯一人の男であり、女である。若し当初に於て誤ったものでないならば、彼等は老年、死に到る迄、胸の底
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