て、それに反撥し、それを非難していた人々も、知識人の中には数が少くないのであった。
ところで、一九四五年八月以後、民主主義化が日本の課題として提示されるようになった。半ば封建の闇からぬけ出ていて、しかも、封建的重圧のために脚をとられていることを最も痛切に自覚している筈のインテリゲンツィアの層こそ、雀躍して、自分の踝《くるぶし》の鎖をたち切るために活動するだろうと期待された。しかし、現実は、単純にそう動いて来ていない。民主主義というものに対して、漠然たる懐疑めいたものが瀰漫している。民主主義という声に抵抗する心理も一部の知識人の雰囲気としてある。しかも、それは、どこまでも心理として、雰囲気としてもたれていて、その社会的コンプレックスに科学的な分析を加えられることさえも民主主義そのものへの懐疑とひっくるめて、肯《うけが》おうとしないがんこな、いこじな心理があるように思える。これは、どういうわけなのだろう。君らに、この社会がどう出来るのだ。俺は俺なりに生きてゆくんだ。放っておいてくれ。そういう気持がインテリゲンツィアらしい観念哲学や芸術論に托して表現されてもいる。
戦争中の知性の殺戮は兇
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