つづく人間復興という文化上の提唱でも、全く骨ぬきの、口先弁巧に陥らないわけにはゆかなかった。何故なら、抽象的な人間復興というものが、現世紀の、対立する社会の生活者である人間にありようはないのであるから。日本の恐怖すべき絶対制は、この場合にも、社会生活に伴う階級性について、またその階級の歴史性について語らせなかった。非道な権力がそれを語らせなかったとともに、人民戦線の提示の場合ナチス的な封建性と近代民主主義の対立の歴史的な必然を消してしまった日本の一部のインテリゲンツィアは、非道な権力の代弁のように、人間の社会生活の現実にある階級性を抹殺した人間復興論を流布させた。こういうインテリゲンツィアの堕落の最も著しい典型は政治的な面で佐野、鍋山、三田村等の侵略戦争協力の理論としてあらわれた。文学では、文学の階級性を否定しようとする幅のひろい既成作家と旧プロレタリア作家の動きとしてあらわれたのであった。
 このように、歴史の中心課題のありどころを極力抹殺し、見えないようにして過されて来た十数年間を思えば、日本のインテリゲンツィアの、今日おかれている苦悩の理由もよく諒解されると思う。日本のインテリゲンツィアは、インテリゲンツィアとして知るべきことを知っていないのである。封建的な諸現象には反対しながら、自分と社会とを封建から根本的に解放するキイ・ポイントがどこにあるかということについては、実に信じられないほど僅かしか知らず、漠然としかしらず、しかもその僅少な理解と漠然たる翹望は、今日、ちっとも民主的でもないし、正直でもない政権の頑迷執拗なねばり存続によって、けがされつつあるのである。
 わたしたちのぐるりの手近い現実のなかに、美しい、模範となる民主主義の見本は見えていない。それがはっきり一般の人々の眼と心に映るまでに、海外との自由なゆききはまだ出来ない条件にある。そのために、インテリゲンツィアの気分の中には、民主主義の課題さえ、そとからあてがわれたように思って、何となし、その手にのるものか、という風な眼つきさえも見える。自分の存在を、自分の発言を社会にのばしてゆく道として、自分自身の運命の展開の方向として、自身の内なるものの発露としての民主的要求が自覚されていないのである。
 そのために、自分の問題としての民主主義がつかめないとともに、日本の民主主義のために自分がどういう存在である
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