かという関係も明瞭にされていない。日本や中国の新民主主義がすすまなければならない歴史の道の上には、封建性を排棄しようとするブルジョア民主主義の要求と、すでに帝国主義の段階にまで進んでいる資本主義的な社会悪を是正しようとする社会主義的な民主主義的方法の必要が、からまり合って、二重になって存在している。勤労階級がこの新民主主義の推進力であるけれども、一面に封建性と闘わなければならない事情におかれている日本のような社会では、インテリゲンツィア自身が、自身のインテリジェンスそのものを封建の型から解放するために、知性の近代的な確立のために、自分の我の成長発展のために、勤労階級と本当に協力して、二つ三つ、五つとより多く組合わされた肩の力で、過去の重圧を押しのけてゆかなければならないのである。
 こういう風にインテリゲンツィアと民主主義の関係を真面目に理解すれば、この頃平野謙氏が反覆して云っているような、小林多喜二の死と特攻隊員の死とは、単に一つ歴史の両面であり、等しく犬死にであるという論の非現実なことが分って来る。オブローモフは自殺しなかった。チェルヌイシェフスキーも自殺しなかった。この二様の、自殺しなかったという行為の価値を、ただ、ロシアのツァーリズムの下における歴史の両面であって、どっちも等しく人間行為のねうちしかないものだと云って、承知する人があるだろうか。
 無数の青年が無垢純一な心を、欺瞞によって刺戟激励され、欺瞞に立った目的のためにすてさせられた。そのことと、作家小林多喜二が、そのように無惨な特攻隊を考え出すような非人間な権力の重圧からインテリゲンツィアをこめる日本の全人民を解放しようとする運動に献身し、警察で殺されなければならなかったこととを、単に歴史の両面の現象と云い切る心には、慄然とさせるものがある。それは、殺した側から見れば、そうなのだろうから。殺した側とすれば、あれはああして殺し、これはこうして殺し、いずれも等しく単一な目的のためにした両様の処置にすぎなかったのだ。しかし、私たちは、徹底的に生きることを要求して生きつつあるものである。したがって、どう生きるかということ、その生のためにどう生を終ったかということについては、傍観的であり得ないし冷評に納ってもいられない。インテリゲンツィアにより目ざめた社会人としての誇りがあるならば、それは何だろう。俗見が当然な
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング