」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、それぞれに愛すべき生活のディテールをとらえて、画に生活の感情をふき込もうとしているに対して煩悶のない有馬氏の「後庭」はじめ「温室」「レモンと花」「静物」等、殆どすべてがアトリエ中心であり、自足してそれぞれの生活の内にはまっているのが、鋭い比較で私に呼びかけたのであった。
全くこの一見逆の結果はどうして起っているのであろうか。素人の考えとして私は、洋画をかく婦人たちが、洋画の本質と自分の日常生活とにある筈の進歩性というものに無条件でたよりすぎている為に、いつしか反対の沈滞に陥りかかっているのではないかと考えた。
日本の社会では確に洋画を女にならわせる親は進歩的であり、洋画そのものが、謂わばそれに従事する婦人の前進的な気質を示すものであろうが、時に、大体、それらの人々の経済的条件は、婦人画家たちに安穏なアトリエを与え、苦痛なしに絵具を買わせるような程度におかれている。そういう生活の平俗な安易さが、才能をさびさせている。そのように感じたのであった。
そして、有馬さとえ氏のように辛苦をして修業していた婦人画家さえ、大家になると同時に、その作品はどこ
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング