ことを作者は諷刺しようとしたのかも知れないということは分るけれども、例えば職業婦人がその性格を発揮するのは職場での仕事においてであると思う。モデルという職業婦人は現実の職場でも裸になるのではあるが、私はそのモデルでさえ、職業における個人の性格の閃く瞬間は、彼女が将に全身をあらわそうとする時にあると感じる。猪熊氏が画面の新奇なくみ合わせに自分から興じているように私には感じられたのであった。
 ところで、今度洋画を出品している婦人画家の作品を見て、私は、寧ろ予期しなかった印象を与えられた。
 材料的に見ても、生活の進歩性から見ても、ずっと自由であるべき油絵を描いている婦人画家の作品より、却って窮屈な条件にしばられている日本画の婦人画家の作品の或るものの方が、或る意味で活々とした感受性を働かし、社会の日常生活にもふれ、心をくばってそこから題材を見出して来ていることを感じたのは何故であろう。
 有馬さとえ氏その他、それぞれの力量を示す作品を出品しているのではあろうが、面白かったのは版画の長谷川多都子氏の作ぐらいであった。日本画では理解が皮相的な憾《うら》みはあるが「煙草売る店」青柳喜美子、「夕」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、それぞれに愛すべき生活のディテールをとらえて、画に生活の感情をふき込もうとしているに対して煩悶のない有馬氏の「後庭」はじめ「温室」「レモンと花」「静物」等、殆どすべてがアトリエ中心であり、自足してそれぞれの生活の内にはまっているのが、鋭い比較で私に呼びかけたのであった。
 全くこの一見逆の結果はどうして起っているのであろうか。素人の考えとして私は、洋画をかく婦人たちが、洋画の本質と自分の日常生活とにある筈の進歩性というものに無条件でたよりすぎている為に、いつしか反対の沈滞に陥りかかっているのではないかと考えた。
 日本の社会では確に洋画を女にならわせる親は進歩的であり、洋画そのものが、謂わばそれに従事する婦人の前進的な気質を示すものであろうが、時に、大体、それらの人々の経済的条件は、婦人画家たちに安穏なアトリエを与え、苦痛なしに絵具を買わせるような程度におかれている。そういう生活の平俗な安易さが、才能をさびさせている。そのように感じたのであった。
 そして、有馬さとえ氏のように辛苦をして修業していた婦人画家さえ、大家になると同時に、その作品はどこ
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