はこういうのをも尚描く[#「描く」に傍点]ということが出来るのであろうか、塗上げ術の問題はあるとしても描法の問題はここには消散してしまっている、そのように感じたのであった。
日本画家たちの日常生活をも、つき動かしている社会的な不安を、これらの人々は現実の自身達の生活からは既にとび去っている日本画の美の伝統の範囲内で解決しようと不可能な焦慮をしている。その解決のない矛盾と焦慮とを平面的で濃厚な色彩で辛くも塗り圧えようとしている苦しさが画面から私の感情に迫って来たのであった。
洋画の部でも、私は精神をつかまれたように感じて立ち止るような絵には出会うことが出来なかった。
この洋画の部では、去年「老婆」を出品して一般の注意をひいた漫画家の池部鈞氏が今年は「落花」という小さい絵を出し、二列に並べたところの上の方に一寸かけられている。「落花」は私に或る感銘を与えた。眼も鼻もないように顔を真白けに塗った「唄わしてよ」の少女が首に手拭をむすび裾をはし折って花見の人が去った後の緋モーセンの床几の上へ一人、すねを並べて足袋をつき出しているところが描かれている。この小さい諷刺的な絵は、感覚的な効果をもって日本の下層階級生活の貧困と猥雑さとその日暮しの感じとを、傍観的に、だが強く表現していたのである。
私は「落花」を見ているうちに、池部氏がこの社会的感情を更に一歩すすめてその中にある発展的なモメントをも表現しないのは、帝展という場所のためなのであろうか、または池部氏自身の世の中の観かたの限度がここに止っているか、そのどちらなのであろうかと興味を動かされた。
全く違った意味で印象にのこっている油絵がもう一つある。それは「ピアノの前」という題で一人の背広服の紳士と並んで訪問服の洋装夫人が腰かけている左手のソファーに、一人全裸体の女が横になっている大きな絵である。作者猪熊弦一郎氏はアトリエへ訪ねて来た雑誌記者に向ってその絵は「三人の異った人間の性格を描き分けようと云うのです。右の男は田舎の素封家の主人、真中はワイフ、左は職業婦人。この三人の気分がのっていますかね」と語りながらその絵と並んだ自身の写真を撮らせているのである。けれども、私にこの絵は必然性が疑われる絵として眼にのこった。
田舎素封家の漫画的鈍重さ、若い軽やかな妻の無内容な怠惰さ、そして職業婦人が或る皮肉をもって裸一貫である
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