の境へまで挙げられたのである。その伝説的に高貴であった先生が、私の今日まで育って来た個性の傾向を知って、励まして下さった歓びは、恐らく私の一生を通じてその光輝を失う事は無いだろう。
 此の感謝は、上の学校へ行ってから、同じような純粋な愛で、私の行く道に力強い暗示を与えて下さったもう一人の先生の名と倶に、永久に私の記憶に彫られている。
 自分が種々の事物に触れて来るに連れて、彼の青年の先生に対する追慕は、今、一人の純粋な青年に対する心と成っている。
 自分が悪い沢山の事を知ったように、彼の先生も種々の醜い事を知ったり知らされたりなさっただろう、そして又その醜悪に対比した「よさ」、より輝き、より恒久的な真実の「よさ」をも、見出し、或は見出そうと仕て居られるだろう、先生も育たれた。私も育った。
 先生は今何処に被居《いら》っしゃいますか。
 生命の萌芽が、一寸の幹を所有するまでの専念な営み――。人は其前に頭を垂れる心を持つべきではないだろうか。
 先生は可愛いのだから、此那事を云いたく無い、厭だ厭だと思いながら、西日の差す塵っぽい廊下の角で、息をつまらせて口答えを仕たお下髪《さげ》の自分を思う。――その時分私は自分を詩人だと思っていた――。
 七月の日は麗わしい。天地は光りに満ちている。が心に微風《そよかぜ》が吹く――あとから、あとから微風が吹いて通る――。
[#地付き]〔一九二〇年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「大横浜」
   1920(大正9)年2月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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