、感じる事が出来るように成るのではあるまいか、私の魂が粗野で、先頃までは鈍かった感触が此頃|漸々《ようよう》有るべき発育を遂げたらしい心持がする。人間が次第次第に、その五体的の複雑性を増して来る。ありがたい事だと思う。
彼の時分に、自分も受け、人にも授けた苦痛の数々が、如何か無駄では無いように成って欲しいと思う。如何な意味に於ても、自分に受けたものはきっと自分の裡の何かに成っている。だからよい。けれども人に与えられたものは謝したい。謝さずにはいられない心持がする。そういう人々の裡には愛すべき両親もいる。其他二三の人もいる。皆の生活が真実で、真剣で、あるべきようにあればよいな、と思う。静謐な祈願である。
「天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――気澄み 風も死したり
あゝ善良き日かな
双手はわが神の聖膝《みひざ》の上にあらむ」
天心たかく――まぶたひた[#「ひた」に傍点]と瞑ぢて――まぶたひた[#「ひた」に傍点]と瞑ぢて――
無我の瞬時、魂は自由な飛翔をすると思う。其時に「人」はよくなる。生きる霊魂には斯ういう忘我がなければならない。小細工に理窟で修繕するのではない根からすっかり洗われるのだ。そして軽々と「果」を超える。只一点に成るのだ。
昔小学校で送った幾年かの記憶は、渾沌としている。其の渾沌の裡に只三つ丈光った星座がある。私と、愛弟と或る青年の先生とである。
其時分、先生はもう大人だと思っていた。十二三の自分は、理性と感情との不均斉から絶えず苦しんでいた。恐ろしく孤独だった。世界が地獄のようであった。そして、今年十九に成った愛弟は、まだ純白な小羊であったのである。
その先生の夢を思い掛けず此間の晩に見た。先生は昔のように細面な、敏感な、眼の潤うた青年で居られた。するとその翌朝故国から来た弟の手紙が、計らずもその先生の断片的な消息を齎して来た、私は生れて始めて、此丈符合した夢を見た。人が呼ぶ偶然の裡には不思議がある。
考えて見れば、大人だと思っていた先生も彼の頃はまだ真個の青年で居られたのだ。恐らく今の私よりもっと多分に「五月の日光」に浴して居られたのだろう。
先生は Romantist であった。感情的な自分もそうであった。土偶《でく》のように感興の固定した先生の群の中で、彼の先生だけが生きた先生に思った。愛すべき青年の先生は私の前で英雄と神と
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング