追想
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)級《クラス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二二年六月〕
−−
去年のちょうど今頃、自分は、福島に在る祖母の家に行っていた。暫く東京を離れ、子供の時分から馴染深い田園の裡に静かな時を過したいと思ったのである。行って、一週間も経ったかと思う頃、K町の家から転送された沢山の書簡に混って、一つ、私には判らない葉書が来た。
差出人は、同級会幹事の誰それとしてあり、宛名は、まぎれもない自分だ。けれども、内容がはっきり心に写らない。文句は、深田様がお産で去月何日死去されましたから、御悔みのしるしに何か皆で買ってあげたい、一円以上三円位まで御送り下さい、というのである。
広い耕地を見晴す縁側の柱の下に坐り、自分は、幾度も、幾度も繰返して文面を見た。第一、なくなられたという深田という人が、誰であったか、どうしても思い出せない。女学校を出てから、殆ど五年ばかりになる。学校にいた時分と同じ姓なら、いくら、人の姓名に対して記憶の薄い自分も、これほど忘れ切ることはないだろう。ところが、卒業後五六年迄の間に、何という友達の苗字の変ることか。一人一人と結婚し、一人一人と、変った姓で呼ばれることになる。結婚してから幾年か経ちでもすれば、良人の姓にも馴れ、記憶に刻まれるのだけれども、今迄、呼びなれていた友の名が、何時の間にかまるで違ったものになり、前に現れると、自分は、すっかりまごついてしまう。また、誰でも、一々友達じゅうに、自分の結婚を告げ歩く人はいない。時には、十人の中四人も知らないうちに、その人の名は、すっかり異ったものになっていたという有様なのである。
勿論深田さんという人も、同級会の幹事が知らせて来る以上、組の中の一人であったには相違ない。誰だろう。お産で死なれたとは気の毒に思う。誰だろう。――考えても、当が付かない。
自分はちっとも心に誰という明かな感じもなく、従って、真面目にさほどの悲しみをも感じない空な名に、御香奠を送る気にはなれなかった。何だか嘘で、自分はただ出せと云われた金を出したという心持ばかりがする。
漠然と、誰かが死んだというだけの感で、私はそのままにしておいた。他に迫った用事があり、夜はもうすっかりそのことを忘れていたのである。
それから一ヵ月ほどそこに滞在して帰京して間もなく、級《クラス》会があった。私は、正月から、まだその年は一度も出席していない。余り御無沙汰になるので、雨の降る中を出かけて行った。そして、皆の、賑やかな、笑い、喋る姿を見ると、ふと自分の心に、先達っての名が浮んで来た。私は、幹事をしていた人に、
「先達ってのお葉書ね、私、深田さんという方が、どなただか、まるで分らないからあのままにしてしまったけれど。どなた?」と訊いた。
「ああ。おつやさんなのよ」
友は、非常に力を入れて返事をした。
「おつやさんが去年の初お嫁にいらっしゃって、深田さんとおなりになったの」
「まあ! おつやさんなの? まあ……」
「思いがけないわね。何てお気の毒なんでしょう――」自分は、言葉なく、友達の顔を見守った。深い、深い愕きが心を打った。
思いがけないという以上だ。気の毒という以上に感じられる。それほど、私の心に遺っているおつやさんという人は延々と育ち、非常に美しい皮膚を持ち、軟い花のような人であったのだ。
女らしい我ままや、おしゃれは、級《クラス》の中で誰よりも持っていた。家が、金持ちの実業家であり、末の娘であることから、ちっとも憎らしくはないたよたよとした処、無意識の贅沢、おっとりした頭の働きが、ありありと思い出される。
その他、私としては、胆に銘じ、忘れ得ない記憶がその人に就ては与えられている。私は、幾度も、
「可哀そうに」
と云った。思い出すと、可哀そうに、と云わずにはおられない。――
そのうちに、私共の組の主任であった先生が来られた。五年の間、自分達は、その、がっしりとした体躯の、色の黒い女教師の下に育てられて来たのだ。大抵の者は、もう人の妻となり、或は親となっていても、彼女の眼を見ると、皆、仲間同士の正直な、打明けた表情は圧せられてしまう。堅くなり、他人行儀になり、生徒であった時の義務の感などが甦って来る。十三四から十八九迄、毎日見た顔、指導された心に対して、それほどの距離が、彼女と自分等との間には在る。
まるで教室にでもいるように、一斉に立って迎えた中を、辞儀と愛素よい笑とを振撒きながら入って来られる様子を見、自分の心は、悲憤ともいうべき激情に動かされた。
あの平気な顔、自分の仕たことに一つの間違いもなかったのだと云いたげな風。私は、
「深田さんが死んだとお聞きにな
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング