った時、どんな気持がなさいました」
とききたいほどの心持がした。
 彼女は、いささかの苦痛、可哀そうだった、という悔恨は感じなかったのだろうか。あの笑い!
 毎日毎日、変転して行く生活の裡で、たとい彼女が瞬間、心の痛みを感じたとしても、それを、今、この場所まで持ち続けて来ることは不可能であろう。
 あの時の、自分の激昂した心情は、そのままで彼女に対し、或は公平でないものであったかも知れない。
 然し。――
 ちょうど、私共が五年の時であった。或る春の心持の晴々とする朝、始業の鐘が鳴り、我々は、二階の教室に行こうとしていた。
 どうかして自分はおそくなり、列の後の方に跟《つ》いて行った。皆、さほど大きな声は出さず、然し、若い生活力が漲り溢れるような囁きを交しながら、階段を昇って行く。――
 そこへ、傍の廊下から、受持の先生が出て来られた。列になっているから、皆、お辞儀はしない。が、前に行くと同じように、若い娘らしい謹みを現して通り過る。――
 先生は、手を前に垂れて組み、優しいような、厳しいような微笑を湛えながら、一人一人、注意深く、顔、髪、着物と眼を走らせる。――私共は、皆心の裡で、この、朝の出迎えが、何を意味するか知り、嬉しがってはいなかった。
 私共は、極端に、髪や顔の化粧や着物のことを喧しく云われた。人間の心得として、虚飾《みえ》や、いかものの化粧が、実に無価値であることを、教えられるより、細々、一々、実際について、批評される。それも、
「あなた、そういう風は、しない方がよくはありませんか、お嬢さんらしくないから」とか、
「おやめなさい」
と、率直に、慈愛を以て、ひそかに告げられるのではない。
 実に、厭味、苦しめる暗示で、大勢の中で、神経的に云われる。云われた者は、教えられた感謝より、いつも、苦々しい悪感、恥かしさ、敵慨心を刺戟されるように扱われるのである。
 中には、一人二人、特にいつも目をつけられ、ことごとに冷笑を浴びる者もある。
 それでも、その朝は無事で、大抵の者が通り抜けた。もう少しで皆行ってしまおうとする時、傍にいた先生の眼は俄にきっと鋭くなった。何事かと思う間もなく、一二歩前に出、
「今沢さん!」と、大きな叱る声で呼ばれた。
 今沢さんと呼ばれたおつやさんは、無邪気な歩きつきから、はっとして先生の方を向いた。
「何です、その顔は! 早く洗っていらっしゃい。すっかり落していらっしゃい!」
 見る見るそこにいた六七人の者は、緊張した。真赤になったおつやさんの顔を見ると、少し濃い目ではあるが、のびよく美しく白粉がついている。
 どうなるかと思う自分の眼の前で、おつやさんは、さっと涙に眼を曇らせ、訴えるように、哀願するように、先生を見た。が、先生の顔には、相手が、未だ十八の、少女であるのを忘却したほどの憤り、憎しみが燃えている。
 一二秒、立ち澱み、やがておつやさんは、矢絣の後姿を見せながら、しおしお列を離れて、あちらに行った。
 彼女は素直に、顔を洗いに行ったのだ。
 暫くして、皆席についてしまってから、水で、無理に顔をこすったおつやさんは、赤むけになったように痛々しい面を伏せて、入って来た。
 その心持を思い、無惨な、若い女の感情を、些《ちっと》も労わる真心のない先生に対し、私は、いたたまれないばかりの苦痛を覚えた。
 若し、自分の生んだ娘であっても、彼女は、あれほど、烈しく、恥しい、辛い思いをさせるに堪えただろうか。何故、時間でもすんだら、そっと陰に呼んで、
「少しお拭きなさい。明日からは、もう少し分らないようにつけましょうね」
と、必要な警告なら、与えてやらないのだろう。
 愛のないこと。それが、若い心には、骨髄に滲み徹る。自分なら、恐らく、そのまま家へ帰ってしまったろう。それを、心持を忍んで、また、皆の裡に戻って来たおつやさんのしおらしさが、同い年であった自分に、いいようのない感銘を与えたのである。
 おつやさんも、恐らく死ぬ迄、その時の心持は忘れ得なかったろう。
 彼女が死んだときいた時、先生の心には、これほど短く一生を終るのであったら、あんなに辛くは当らなかったものをという思いは湧かなかっただろうか。
[#地付き]〔一九二二年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人之友」
   1922(大正11)年6月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
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