ら、抱かられて訳も分らず悲しくなった私と一緒に長い事啜泣きして居た事もあった。
その時分には、彼の私に対する愛情は前よりも余程熱情的になって来て居たらしい。
彼が無言で涙組んで居るのを見ると、私には言葉には云えないでも彼の心はすっかり感じられる様になって二つの感傷的な心は、非常な調和と帰一を見出し得て居た。
もうじき死のうとして居た彼の心には種々の霊感、感激、暗示に満たされて居たのであろう。
彼の最も深い苦悩と歓喜は此の時に一番群がり湧いて居たのであろう。
若し彼が言葉を持って居たらさぞ動かさずには置かない事々を物語ったで有ろうけれ共彼は只祈る事丈を知って居た。
実際彼はそのころ祈祷の明暮れを送って居たのである。
其の日は大変天気が好かった。
多分十月の末であったと思うが、高々と澄み渡った空の下に木々の葉が皆金色に踊って居る様な日和であった。
私は叔父に連れられて家を出かけた。
何処へ行くと云う的もなく、二人は家の前の細道を曲って人通りの少ない坂を田圃の方へ下りて行った。
叔父はいつもの通り頭に繃帯をし、杖を持って居、私は、十位までよく着て居た赤地に細い白線で市松が小さく小さく切ってある遠方から見ると真赤に外見えない様な着物を着て居たと覚えて居る。
田圃や畑の間を少し行くと思いがけず私共は両方が林になって居る大変急な細道に行かかって居た。
幅が狭い上に梢で遮ぎられた日光がよく差し透さないので、所々に苔の生えた其の道を弱いたどたどしい二人が登り切るのはなかなか大した事であった。
只何かの時にと持って居る叔父の杖は大変益に立って、滑ろうとする足を踏みしめる毎に、躰の重味で細い杖が折れそうにまで撓むのを、どんなにハラハラして私は見て居たかしれない。
息をはずませながら私は叔父の袂を引っぱって一足一足と踏みしめて、漸う最後の一歩を登り切ると、其処にはひろびろと拡がった高原が双手を延ばして私共を引きあげて居た。
私は生れてから此那にも草の一杯生えた、こんなにも人の居ない林のある処を見た事がない。
今立って居る処から四方へ延び拡がって居る草原は、黄緑色にはてしなく続いて、遠い向うには海の様な空の中に草の頭がそろってしなやかにユーラリ、ユラリとそよいで、一吹風が吹き渡ると、林中の葉と原中の草が甘い薫りを立ててサヤサヤ、サヤサヤと鳴り渡る。はっきりした茶色の幹を輝かして立って居る一群の木々の間からは真紅の小さい葉どもがチラチラして、その奥の奥からはチチチチチ、チチチチチと云う小鳥の声があっちにゆったり落着いて居る山の方まで響いて行く。
私は歓びと驚きで胸が張ち切れそうになった。
太陽のよっぽど近くまで来たのではあるまいかと思った程四辺は明るく金茶色に輝いて、天は私が爪立てたら触れそうに感じられた。
静かに分けて行くと、黒い丸い小さい実をつけたり、御飯粒の様な凋んだ花を付けた高い草が私の胸の所で左右に分れて、ブーンと風音をたてながら小虫が飛び出したりした。
私はうれしさに我を忘れて一気に向うまで馳け抜けて見ると、丁度カステラの切り目そっくりな※[#「涯のつくり」、第3水準1−14−82]《がけ》が目の前に切ったって居る。
私には見当もつかない程低い低い下の方から先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐの足元まで這い上って居るその※[#「涯のつくり」、第3水準1−14−82]の面は鋭い武器で切られた様に滑らかそうで、赤土の堅い層の面をポカポカなそれより黄色い粉の様な泥が被うて居た。
そこからは弟達の玩具の通りな汽車の線路や、家や、私のお噺の国に住わせたい様な人が小さくチョコチョコと働いて居るのが見られた。
私があっけに取られて居る後から追い付いた叔父は私と並んでその※[#「涯のつくり」、第3水準1−14−82]のとっぽ先に腰をかけた。
けれ共私は、自分の足の先が宙に浮いてブラブラして居るのに気がつくと、地面ごとあの下の方までころがって行きそうな不安や、若し此の草履を落したら誰があすこから拾って来て呉れるかしらと思うと、気味が悪くなって、ジリジリと後へ下って傍の草地へ座ってしまった。
叔父はすぐそばに見える山について種々の事を話してくれた。
自分がまだ子供だった時夜足駄を履いて登った事があって、天狗が居ると云う事だと聞くと私の驚きは頂上になった。
赤面の棒鼻をした白髪の天狗が赤い着物を着羽根の団扇を持って何処の木の上に止まって居るだろうと、只なだらかに浮いて見える山の姿に目を凝した。
勿論偉い天狗様は見え様筈もなかったけれ共、叔父は天狗の事から又神様の事を話し出した。彼は非常に興奮した口調で殆ど叱責する様に私には分らない種々の事を説き聞かせた。
そして終には、教会の説教台に立って、幾百かの聴衆を前にして居ると同様に、手を動かし眉をあげて、いよいよ声高に云うのを見て居ると、私は何よりも先ず激しい恐怖に捕われて仕舞った。
生れて始めて斯う云う処に来た事丈でさえ異った気持にされて居たのに、叔父の様子と声は七つの子供に対しては余り厳格であり解し得ないものであったので、今にも先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐ逃げ出したい気持になって居た。
けれ共逃げ様にも行く道は分らなかった。
私は途方にくれて、きっと気が急に違ったに相違ない叔父の素振りをおずおずながめて居たが到頭堪え切れなくなって、
[#ここから1字下げ]
「帰りましょうよ、
ね叔父ちゃん、
帰りましょうってば。
[#ここで字下げ終わり]
とせがみ出した。
必死の力を出して骨の出た彼の肩をゆすったり、手を引っぱったりして、漸々彼を立ち上らせたのは、余程立ってからの事であった。そして行きより非常に長くかかって家に帰り着いた。此の忘られない事のあった※[#「涯のつくり」、第3水準1−14−82]は何処の所か私には長い事分らないで居たので、或時は其等の事は皆自分の空想なのでは有るまいかと云う気持にさえ成った事があるが、いつだったか目黒へ行く時田端へ出る近路だと連れて行かれた処は、丁度私の記憶の中の彼の野原であった。
此の時私は訳もない安心で何となし心が軽々となった。
其処は、佐竹さんの所有地で道灌山のすぐ傍にあたる所であったのだ。
それから後屡々私は弟達と遊びに行った。林の奥では彼の時の様に小鳥が囀り日は同じ様に黄金色に光って居る。
筑波山の天狗は何時まで生きて居るだろう。
私と叔父が一緒に出たのは之が最後であった。
大変に悪くなったのは、十一月の二十五日の晩であったと覚えて居る。
大病人を抱えた家の中は皆足音を忍ばせながらも走って歩くほど混雑して居たので、只邪魔になるほか能のなかった小さい私は、弟共と一緒に一番奥の間に宵の口から寝かされた。
不安だと云うのでもなく、可哀そうだと云うのでもなく、家中のどよめきに連れて只ソワソワして居た私は、深く夜着の中にもぐって居ながら、遠くの足音にも耳をすませたり、一寸人が近くまで来ると、咳払いをしたりわざと欠伸《あくび》をしたりして専ら気の毒な自分が寝もやらずに居る事を知って貰おうとしたけれ共、誰一人障子に手を掛けて見様とする者さえなくって、自分の事などは見向きもしない様にセッセと行く所へ行ってサッサと帰って行って仕舞った。
私のいら立ちが激しくなるにつれて家中のざわめきは益々ひどくなって、台所で女中が弾んだ声で、
[#ここから1字下げ]
「富田さん富田さん
[#ここで字下げ終わり]
と叫ぶのに混ってバタバタ云う草履の音や氷を欠く響きが只事ならず段々更けて行く夜の空気を乱して聞えて来た。
向うの方は昼の様に明るく、不断はついて居ない灯まで廊下の角々や風呂場にあかあかと光って居る。
何と云う賑やかな面白そうな事だろう。
私は起きて行って見たくなって来た。
初めの間は母に叱られるのを考えて足をムズムズさせながらも我慢して居たが、其等の騒がしい音は丁度楽隊が子供の心を引き付けるより以上の力で病室へ病室へと私の浮足たった霊を誘い寄せるのであった。
私の我慢は負けて仕舞った。
そして到頭隣りのリンゴをもぐ様な心持になって起き上って、廊下へ一歩出ると、あんまり真暗闇だったのと、これから取り掛ろうとする大冒険の緊張で、犬っころの様な身震いをした。
足の裏の千切れて仕舞いそうなのを堪えて探り足で廊下の曲り角まで行くと右側の無双窓の閉め忘れた所から吹き込む夜の風が切る様に私に打ちかかって、止め様としても止まらない胴震いと歯鳴りに私はウワワワワと獣の様な声を出して仕舞った。
もう真から気味の悪い思いをして漸う廊下を抜けて、叔父の部屋の傍まで来たかと思うと、いきなり私の心を引っさらって行く様な物凄い呻めき声が起った。
私は縮み上った。
そして、此那気味が悪いのに何故来たのかと云う気持にもなりながら、矢張り怖わいもの見たさで、少し隙き間の出来て居た襖の陰にぴったり貼り付いて中をのぞいた。
部屋の中は平常叔父の使って居たのとは違って大きい光った油壺の照り返しまで付いた洋燈が灯って居るので他所の部屋の様に明るくて、大きい影坊子が向うの壁の上に重ったり離れたりして居る。
沢山の人が居ながら皆自分が病気の様にだまって居る。
お祖母様もお叔母ちゃんもああちゃんも……黒い洋服を着て居るのはお医者様だろう。
オヤオヤ変なものだ何が彼那に光って居るのだろう。
私は大変珍らしく暖くなった様な心持になって、自分がかくれて居るのだと云う事等は、すっかり忘れてあれこれと見廻して居ると、祖母の陰になって顔の見えない叔父の声が突然非常に大きく、
[#ここから1字下げ]
「嫂さん。
[#ここで字下げ終わり]
と投げつける様に叫んだ。
苦しくて苦しくて堪らない息を吐くと一緒に夢中で出た様なその声は太く短くかすれて居た。
[#ここから1字下げ]
「え?
え? 何ですか。
[#ここで字下げ終わり]
母は体を曲げた様であったがあんまり恐ろしかったので私は隙き間から目を離して、しっかり瞼をつぶって仕舞った。
此の次はどんな声がするだろうと思うと、急に心臓の鼓動は激しくなり喉元で息をしながら動きもしずに立ちすくんで居ると、急に明るい光りが薄い瞼を透して感じられたのでハット思って目をあくと、目の前にはいつもより大変大きく見えた母が立って居た。
あんまり意外だったので、声も出なかった私は、ボンヤリ立って居ると、
[#ここから1字下げ]
「まあお前は……
さあ彼方へ行って寝て居ましょう。
[#ここで字下げ終わり]
と云いながら母は元の部屋まで送って来て、パタパタとたたきつけると、
[#ここから1字下げ]
「今御用がすんだらすぐ来ますよ。
[#ここで字下げ終わり]
とすぐ又独りぼっち置いて行ってしまった。私は暫く眠られないで怖わい思いをした。
けれ共いつの間にか子供の正体ない眠に落ちて、翌朝一人でに目をさまして見ると、昨夜の事は嘘の様に静まり返った家中は水を打った様であった。
女中の話で昨夜の夜中に叔父と母や其の他の者は又病院に行って仕舞ったと云う事を知ったけれ共別段驚きも悲しみも私の心には起らなかった。
学校が無かったのか行かなかったのかして、弟とその時分しきりにして遊んで居た「お姫様と小馬」と云う私共丈の遊びをしたりして居ると多分昼頃だったと思う、母が眼を腫らして茶色の雨ゴートを着たなり一人でポツンと帰って来た。
叔父は到頭亡くなって仕舞ったのであった。
[#ここから1字下げ]
「お叔父ちゃんが死んだんだって?
[#ここで字下げ終わり]
死ぬと云う事のはっきり分らない私は、勿論非常な悲しみも感じ得られなかった。
[#ここから1字下げ]
「おとといまで彼那にお話をして下すったお叔父ちゃんが死んじゃったって?
どんなんなったの。
え?
こわい事?
[#ここで字下げ終わり]
私はすべてが信じられなかった。
彼那強そうな体のお叔父ちゃんが勿論繃帯はして居たにしろ急に死んでもうじきお
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング