は忘られて、極く稀に兄弟や親族の誰彼の胸に「昔の思い出」として淡い記憶の裡に蘇返るばかりである。
其故只一年位ほか一緒に居なかった私而かもまだ小学に入った許り位の私にとって彼の現れそして去った間の事には、新たな涙を今も流す程の事として残されては居なかった。
それは当然の事として去年あたりまでは過ぎて来て居たのである。
けれ共此頃になっては、何かにつけて思い出す三十二三の彼と私との間に織られた記憶の断片が種々な点で私にとっては忘れ難いものになって来た。
其の原因が何であるか私は分らない。
又分らせ様とも仕ないけれ共、漸う育ち掛けて来た感情の最大限の愛情を持って対した私と、宗教的に馴練されたどちらかと云えば重苦しい厳粛な愛情を注いで居た彼との間に行き交うて居た気持は、極く単純ではあったにしろ他の何人の手出しも許されない純なものであった事を思い出す。
私は両親に対してより以上の愛を彼に捧げて居た。
彼の死の二三日前まで一刻も私は離れて居た事がなかった。
彼の影の様に暮して居た私は今になって暫くの間弱められて居た彼へ対しての愛情がより種々の輝きを添えて燃え出して来た事を感じて居
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