私の云った事が此れ程の報酬を受けなければならない程大変悪い事であったろうとはどうしても思えなかったので、すっかり怯えた心持に成って仕舞った。
 自分の大切に思って居る人から叱られる事は私には一番たまらない事である。
 もう先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐにも逃げ出し度い様になりながらも、左様しては悪いだろうと云う遠慮が起って非常に途方に暮れた心持になった事があった。
 此の一事は私の無遠慮な言葉に制限を与える様になった。
 それから後は、彼に何か話す時今まで感じなかった様な用心深さと緊張が胸一杯になって、彼に「何でも喋る」と云う打ちまかせた態度から僅かながら遠のかせられた。
 此の事を思う毎に若し私が十年立つ今まで、彼と一緒に、少なくとも折々は会いもし口も利く生活をして来たら、かなり有りのままに自分自身を表わして居る私の今の生活がどの様に変化させられただろうと云う事を興味深く考える。
 私がクリスチャンになって居た事丈は恐らくどっち道間違い無い事であったろう。
 左様でなく終った事は私にとって不幸であったか幸福であるかは分らない。

 彼は朝から晩まで大抵は自分の部屋に閉じこもって本の裡に暮して居た。
 其の時分は、今私の書斎になって居る陰の多い、庇が長い為に日光が直射する事のない、考えるには真に工合の好い五畳が空き部屋になって居たので、其処がすぐ「お叔父ちゃんのお部屋」に定められて居た。
 非常に砂壁の落ちる棚の上だの部屋の周囲にはトランクから出した許りで入れるものもない沢山の本が只じかに並べてあって、鳶色をした薄い同じ本が沢山荒繩にくくられてころがって在ったりした。
 その鳶色の本を今見れば彼が非常に苦心して出版した『神の大いなる日』と云う書籍の残本であったのだけれ共、その時分の私には只「同じな沢山のご本」と丈ほか見えなかったのである。
「お叔父ちゃんの御本」は皆テラテラした紙に面白い絵の沢山書いてある好い香いのするものであった。
 赤や青や時にはほんとに奇麗な金や銀の表紙の付いて居る其等の本は、灰色の表紙と只黒い色でポツポツと机や枝のしなびたのが付いて居る教科書よりどれ位子供心に興味を持たせ読み度いと思わせるものであったか分らない。
 どんなにか面白そうであった。
 けれ共皆悲しい事には英語で、私の読める片仮名と平仮名ではなかったので只の一字も感じる事さえ出来なかったけれ共、実にちゃんと並んである字の下に赤や青の線が随分沢山ついて居るのは全く解せない事であった。
 まして、切角白くしてある所へゴチャゴチャと汚ない程種々なものが書きつけてあるのを見ると私はすっかり喫驚して仕舞った。
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「お叔父ちゃん、
 随分いけないわねえ此那に御本よごして……
 先生に叱られない?
[#ここで字下げ終わり]
 彼は只笑いながら頭をポトポトと叩いてくれた丈で私の大疑問は解決されないで終った。
 けれ共私は羽根のある可愛い自分がお伽噺で読む通りの子供達の群や天に昇って行く美くしい人々の絵を見ると、今まで読んだ沢山のお話が皆実現されて来る様に感じた。
 或時は自分自身の肩からスクスクと羽根が生えて、多勢の人達の歌ったり踊ったりして居る大変面白そうな国まで飛んで行く事を夢想したり、子供の頭から皆光りが差して居るので自分のは如何うかと思ってソーッと鏡を見ると只黒い小さい頭がある丈なのに非常に失望した事もある。
 其等の空想的な宗教画は少なからず「私のお話」の材料になるに益だって、折につけて口から出まかせの私独りのお話は前よりも数多くなりより架空的になって行って、此れまで此上ないものとして読んで居たあたり前の人間と人間が「けんか」をしたり戦をしたりする丈のものは非常にあき足らなくなって来た。
 魔法のお婆さんはより歓迎され、一寸目ばたきする間に大きな御殿を作れるお姫様が待ち迎えられる様になったのである。
 私は彼に種々の御話をきかせた。
 どの様なものも皆彼を喜ばせたらしかったけれ共、何か一つでも悪い事をした者は必ず何処かで、
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「神様御免下さい、
 もう致しません。
[#ここで字下げ終わり]
と云わなければ其の話は終りを告げる事は出来なかったものである。

 彼が中耳炎を起したのは帰って半年立つか立たない時であった。
 大学に入院して切開して貰ったのだけれ共、後から聞くと、自分は斯うやって死ぬ運命を与えられて居るのだから病院へ等入って、終るべき命を無理算段で延して置く事は望まないと云ってなかなかきかなかったそうである。けれ共私の母や親類の者は気を揉んで、散々説きすかして子供をあやす様にしながら入院させたそうである。
 そして、手術室に入ろうとした時、他の人の手術をされた血だの道具などが凄い様子で取り
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