散らしてあるのを見たら気が遠くなって成って行く様な、忽ち自分自身の命が気遣われ出したと後は死ぬまでよく繰返し繰返し云ったと云う事も聞いて居る。
 叔父が入院して居る間中動けない時には毎日毎日欠かさず一度ずつは学校から帰ると先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐお見舞に行くのが常であった。
 どんな病室であったかまるで覚えては居ないが、何でも入口から室までの廊下が大変長く静かで、両側の白壁に気味悪く反響する足音におびやかされて、中頃まで来ると、馳け出さずには居られない気持になったのを思い出す事が出来た。
 うっすり思い浮ぶ彼の室は非常に狭い廊下の突きあたりから二番目の灰色の扉の付いた部屋であった様だ。若し間違えては否ないと云うので、戸の傍に掛って居る札の自分に読める名字を確かめてから看護婦のする様にコツコツと拳で叩いてから大人になった様な心持で入って行った。
 その部屋へ行く途中の手術室の前を通るときに、チラチラ見える人影や何かに好奇心を動かされて、のぞきたいと思いながらこわくて止めた事は幾度だか分らない。
 今でも好きな病院特有の薬臭さが其の頃から気持よくて、出入口に一歩足を入れるともう軽い興奮を覚える様であった。
 殊に彼の明るい天井の手術室の辺に漂うて居た消毒薬の香いは、今でも此の鼻の先に嗅げる程はっきりした印象となって残って居るのである。

 或る大変吹き降りのする日に、学校から帰ると母の止めるのもきかずに合羽を着小さい奴傘を差して病院に出かけた。
 多分独りだったと思う。
 まだあんなに道路の改正されない間の本郷の大通りは雨が降るとゴタゴタになって今では想像もされない程ひどい路であった。
 ころばない要心にどんな大雨でもそれより外履いた事のない私の足駄――それは低い日和下駄に爪皮のかかったものである――では、泥にもぐったり、はねがじきに上ったりして大層な難儀をしなければならなかった。
 小一時間も掛って漸う赤門の傍まで来た時、車をよける拍子か何かに、引ったくる様にして持って来たリンゴを風呂敷の包み目から二つ程、ドロンコの中にころがして仕舞った。
 どんな工合にしてそれを持って行ったか覚えないが、とにかくどうにか斯うにかして病室にたどり付いて、母に教えられてある通り猫の様にカタリとも云わせずに戸をあけて入ると、叔父は薄目をして、
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「おようか。
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とぼやけた声で云った。
「おようさん」と云うのは叔父の妹で真に好い人であったが若くて死んだ人である。
 此の叔母ちゃんに就ても私は種々な思い出を持って居る。
 けれ共、じきに叔父は私だと云うのを知って、大変によろこんで呉れた。
 雨が降るから来まいと思って居たのに大変強い児だとか、左様云う心を持って居るとどうだとか種々云いながら、私の気の毒そうに出した泥団子の様なリンゴを見ると、いきなりそれを握って、
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「有難う、
 ほんとにありがとうよ。
 何よりも嬉しい。
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と云って、いつもの様に目を上に向けてお祈りを仕始めた。
 だまって傍に立ってそれを見て居た私は、何とも云えない感情が胸一杯に湧き上って、大声を上げて泣きたくて泣きたくて、どうにも堪えられない心持にさせられて居た。
 彼の時の息がつまる様な胸が痛い様な苦しい感じは今でも私の心にはっきり戻って来る事がある。
 私は喜ばれて嬉しかった。
 けれ共泥リンゴが何故その様に好い物であるかは分らなかった。
 私は種々考えたし聞きたいとも思ったが、この事は只自分丈の思い、喜ばれて居る事で他の人に云うには惜しい事だと云う様な心持になって、つい誰にも母にさえも話さなかった事である。

 叔父の寝台の傍で聞いた宗教的な種々の話は実に沢山であった。
 アダム、イブの話。
 ノアの箱舟。
 クリストの子供の時の話。
 Babel の塔。
 其の他種々の話を、彼は我々が日常の出来事に対して云う通りな静かな事実を有りのまま物語って居る様な口調で話した。
 子供にお噺だと云う感じを一寸も持たせなかった程、真面目に深重な様子であったので、私は彼の言葉のままに世界を作り無花果を食べ、大きな石を積み上げ様とする人民になりすまして居た。
 そして、まるで心をその事々に奪われた様になって、枕をかついで、
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「あー高くなったねえ、
 今度は何か上げ様、
 石かえ、
 聞えませんよそいじゃあ駄目だ。
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等と叫んだり、自分が蛇になって二人の弟のアダムとイブに、
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「貴女そりゃあ美味しいのよ、
 おあがりなさい。
 神様がけちんぼうだから食べるなっておっしゃるのよ。
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等と云うので母に心配
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