がらせた事も少くはなかった。私があんまり空想的な想像にばかり心を支配されて居る事を母は案じたのである。
 その数多い話の中で一番私を喜ばせもし又自分の何も知らない事を悲しませたのは、ノアの洪水の話であった。
 私は生れて一度も大水を見た事はない。
 それだのにどうして世界中の滅びる様な洪水を想像出来様。
 けれ共、大きな箱舟の中に牛だの馬だの鳩だのと一緒に世界にノアがたった一人決して死なずに、今日も明日もポッカリ、ポッカリと山を越したり海だった所を渡ったりして行クと云う事が、無性に羨しかった。
 どんな偉い王様も、獣も皆溺れるのにノアだけ生きて広い世界中を旅行すると云う事は何と云う幸な事であろう。
 若しお叔父ちゃんの話す様に神様は偉いなら、お願いさえすればきっと自分もノアにして下さるだろうと云う事を思わない訳には行かなかった。
 そうなったら、彼の本と彼のオルガンとお母様、お父様、くんちゃん、みっちゃん、誰と誰を皆連れて行ってあげ様などとさえ思った事があった。
 此の時分に私は神様と云う事を度々きかされた。
 そして、漠然と神様があるのかもしれないと云う事を感じる様になったけれ共、悪い事をすると好い所へつれて行って下さらないと云う神様と、美味しいお菓子や御飯を下さる神様とは、どっちがほんとうの神様かしらと思い迷うた事が決して一度や二度ではなかった。
 その様な風であったから、神様を有難いとしみじみ思う事も出来ず、彼の希望して居ただろう様な、宗教的感化を受ける事は殆どなかったと云ってよい位であった。
 けれ共、彼の心の中には、いつとはなしに私を自動的に宗教的な生活を望ませる様に仕度いと云う願いもあった事はかなり確かな事である。
 今日まで彼の居なかったと云う事は、私の生涯に意味のある事である。
 若し彼が今日まで居、私も又今通りに生育して来たものとすれば、彼と私との間には互に辛い争闘を起さなければならなかったろうし又小さかった時分の種々の思い出に苦がい涙を味わせられた事であったろう。
 私は正直に打ちあける。
 彼の日の彼の時に彼が去ったと云う事は互のために誠によい事であった。
 私は今彼に久遠の愛情を感じ、彼によって与えられた静かな愛を心の裡に保ち続けて居られる。
 二つの霊の交通は彼の時の純なまま愛に満ちたまま何物にも色付けられる事なしに、墓に入る日まで私の胸に響き返る事が出来るのである。

 大変深く切った疵も少しずつなおりかけて来ると、独りでボツボツと食べる病院の飯は不美味いと云ってはお昼頃大きな繃帯で印度人の様に頭を包[#「包」に「(ママ)」の注記]いた叔父がソロソロと帰って来る様になった。
 その頃は長かった髪も頭の地の透く程短かく散斬りにし、頬の肉が前より一層こけたので、只さえ陰気であった顔は一倍凄くなった。
 黒っぽい木綿の着物に白い帯をした彼が、特別にでも自分だけは粗末な品数の少ない食卓にしてもらって、子供達の話や母の慰めを満足したらしく聞きながら、一口ずつ噛みしめて食べて居た様子がありありと目に浮ぶ程である。

 或る日いつもの様に庭木戸の方から入って来た彼は、縁側にドサリと腰を下すと持って来た杖がころがったのに耳もかさず、妙にソーケ立った様な顔をしてだまって溜息を吐いて暫くしてから、
[#ここから1字下げ]
「余程弱ったものと見えて今日は来る道に目が廻って仕様がなかった。
 高等学校の角で三十分もしゃがんで居た。
[#ここで字下げ終わり]
とさもげんなりした様に云った。
 此の時位私の心に彼に対して憐みの湧いた事はなかった。
 今までは叔父と云えばどうしても自分より偉く強く、どんな時でも困る苦しい事はない人だと云う様な気がして居たのが根底から引っくり返されて仕舞ったのである。
 彼の棒を並べた様な垣によっかかって、人の足元の塵を浴びながら叔父ちゃんが苦しがって居るのに、沢山通る人の一人もどうしたのかと云ってさえ上げる人はないのか。
 何と云うひどい人の集まりだろう。
 何故自分が行ってそんな悪い人達を睨みながら大切にお叔父ちゃんを連れて来て上げなかったろう。
 私は自分自身の手ぬかりの大いさに苦しめられると共に「悪い大人共」に対する憎しみで体が震える様であった。
 そして彼に対する大人らしい同情が一層愛情を強く燃えたたせて、彼の味方は世界中に自分がたった一人有るばかりだと云う肩の折れそうな責任と誇りを感じたのであった。
 その時から私の知って居る以外の大人共は非常に減ぜられた価値を持って私の前に現われて来たのである。
 其那事があってからじきに叔父は家に帰って来た。けれ共頭の繃帯は少し薄くなった丈で常に気分が悪そうに悲しそうであった。
 時には、やつれた髭の長くなった頬に止め度なくボロボロと涙をこぼしなが
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング