沈丁花
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)先《せん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)万一|需《もと》めて
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 はる子は或る知己から、一人の女のひとを紹介された。小畑千鶴子と云った。千鶴子が訪ねて来た時はる子は家にいなかった。それなり一年ばかりすぎた後、古びた紹介状が再び封入して千鶴子から会いたいという手紙が来た。はる子はすぐ承諾の返事を出した。先《せん》始めて来た時留守にしていたまま挨拶もしずにしまった。それを思い出したのであった。
 初対面のとき、はる子は千鶴子の神経質そうな顔立ちを眺めながら
「ずっと前から×さん御存知?」
ときいた。×さんが彼女を紹介した人で、彼は現代の傑《すぐ》れた作家の一人であった。
 千鶴子の国は西の方で、そこの女学校の専門部で国文を専攻し、暫く或る有名なこれも物を書く人の助手をした後、その人のすすめもあり上京したのだそうであった。まだ一年と少しにしか東京に来てならず、×さんと知ったのもその後のことだと云った。
「でも×さんという方は洗練された、都会人らしい神経の方ですね、いろいろな場合、私の心持を本当によく劬《いたわ》って下さるのが分ります」
「書くものも見ていただきなさるの?」
「いいえ、書いたものは一度もお見せしません」
 芸術の上で、彼の弟子になる積りはないという意味のことを千鶴子は深く思っているところあるらしい口調で云った。
「あの紹介状を書いて下さいました時もね、御話しているうちに悲しくなって、私泣いてしまったのです。×さんは女のひとにいい友達がないからいけないのだろうって仰云《おっしゃ》って――方々に連れて行っていただいたりするのに×さんがいいだろうって仰云ったのですが、×さんは何だか伯母さんのような気がするから、本当に友達として対せるあなたに書いていただいたのです」
 友達に本当に成れるかどうかはる子にはその時わからなかったが、彼女の境遇には一種女としての共感というようなものが感じられた。千鶴子も、人生に対する大きな野心に燃えて、田舎から都会へ都会へと出て来る若い女の一人なのであった。自分の才能がまだ自分でさえ確り掴《つか》めないうちに、非人情的大都会の孤独な日常生活が魂の底を脅かし始めるという状態をはる子ははっきり理解出来た。千鶴子はその時、失敗して帰国した兄の知人の家で家事の手伝いをしていた。そこの老夫婦と面白くないこともあるらしい。
「何か職業を見つけて一人で暮したいと思います。到底あの人たちと調和して行くことは出来ないのですから。それに結婚問題もありますし……」
 二三時間いる間に、つまり千鶴子は境遇的に不幸な女性で、その不幸さ、焦燥が話だけではない、座り工合や唇の動かしかたにまで現れているという印象をはる子に与えたのであった。千鶴子は気ぜわしかったと見え、帰り際後手のまましめた格子と門を一寸ばかりずつしめのこしたまま行ってしまった。その隙間を見ているうちにはる子は漠然と憂鬱を感じ、茶器の出ている自分の机に戻った。
 数日後のこと、夜に入って千鶴子が訪ねて来た。同居している老人達とのいきさつが大分込み入って来たらしく話は主として実際の生活法についてであった。老夫婦が金貸しか何かそういう種類の職業で鍛えた頭で割り出し、目下千鶴子にすすめている縁談が、彼女にとって気乗りのしないのは無理なく思えた。然し、その話のみならず、全体として結婚しようか、しまいか、大局に於ての決心がつかない苦しみの方が大きいらしかった。それに、その問題で愈々《いよいよ》家を出る決心はしたが、職業がない。千鶴子は、どこかぎこちなく修飾した言葉つきでそれ等を訴えながら、細面の顔をうつむけ、神経的に爪先や手を動した。
「私――どんな仕事をしてもいいと決心しているんですけれど――」
 はる子は、
「ふうむ」
とうなった。
「今急に心当りと云っても私も困るけれど……貴女どこか当って御覧になって? ×さんの助手をしていらしった経験や縁故で記者か何かないこと?」
「ええ、先生の御紹介で××堂の×さんが×へ紹介して下さいました」
「駄目でしたの?」
「あすこの×さんが、創作をする積りなら雑誌記者になるのは私の為にとらないっていうことでした」
「ああ――本当に×は駄目ね。あすこは、そういう他に自分の目的とする仕事があるような人は採用しないって話をききました」
「その代り、いい小説をお書きなさい。書けたらいつでも喜んで載せて上げますと云って下さいました」
 千鶴子の語気に希望が罩《こも》っていたので、はる子は黙って頷いた。恐らく日に幾人となく、そういう女や男に会う×は、十人が九人迄にそうやって、出世祝いの護符のような文句を与えているのだろう。効験をためすのは将来のことだ。今、彼女が必要なのは明日から住居と食物を与える職業だ。言葉数をきかないが、千鶴子が心でどんなに不安を覚えているか、それははる子の心にまざまざ映って来た。椅子の端に三角を逆にして立てたような内心の危うさでかけている千鶴子の頼りなげな姿は、はる子をもひどく不安にした。ほつれた髪を見つめ、当惑の腕ぐみをしつつはる子は、いっそ、暫く私のところにいらっしゃい、と云い切れたらさぞ吻《ほ》っとするだろうと思った。千鶴子が拒絶はしないであろう。ただ、はる子の親しみの感情が彼女に対して未だそこまで発育していなかった。性格の故で、千鶴子はそれに身の上のことも打ち明けては話さず、ほんの輪郭を、断片的に聞かせただけであった。何だか解らないところがあった。然しはる子は、こう困っている有様を見ると、
「ではまあさし当りもう一度××堂の×さんのところへでも行って見るんですね、私の方も考えて置きましょうから」
というお座なりで帰す訳には行かない気がするのであった。
 夜は段々と更けて来た。どこかで十時を打った。あたりは静かなので雨戸の外から聞えるその時計の音が、明るい室内のゆとりない空気を一層強く意識させた。その時まで暫く黙ってぼんやり考えに耽っていた千鶴子は、それでも時間に心付いたと見え、機械的に椅子から立ち上った。彼女は立ってからも障子を見つめていたが、のろのろはる子の方に振り向き、
「私カフェーの女給にでもなってしまおうかと思います」
と云った。その声はやっと聴える程細かった。
「×さんもそういう仕事をしていらしったんでしょう?」
 千鶴子は、そして、如何にもせっぱ詰った顔付をした。薄手な顔の筋肉一本一本に苦悩の現れた表情で、はる子は自分が胸を刺されたような苦痛に打たれた。今開く路ならどこへでも体ごと投げそうな千鶴子の前に思わず立ちはだかるように、はる子は、
「×さんがしたからって何もあなたが……」
と云った。稍々《やや》自分を鎮めてから、はる子は更に云った。
「まあもう少し坐っていらっしゃい。――貴女折角それだけの教育を受けたんだから、それを活かす職業を見つけた方がいい」
 帰すにも帰せない気がした。はる子は、不図散々知人の間を頭の中で模索した揚句、或る中年の婦人を思い浮べた。その人はこの頃大規模な辞書――百科全書を編纂していた。彼女の書店で、若しか一人若い筆の立つ女を助手として入用ではないだろうか。彼女自身役に立てる道はなくても、同じ仕事の他の方面を分担している人々が、万一|需《もと》めているかもしれない。――
「ああ、それが好い、あなた××の古い出の方で×夫人という方――御存じじゃないでしょうね、この方に一つ紹介を書いて見ましょう、範囲のひろい仕事をしていらっしゃるから、若しかすると何かあるかもしれない」
 千鶴子は、矢張り消えそうな声で、
「ありがとう」
と云った。はる子は紹介を書きつつ、或る不便を感じた。それは、千鶴子がこういう場合必要なだけ自分を打ち開いてくれていないので、×夫人に彼女を推薦しようにも個人的な材料のないことであった。はる子は已を得ず学歴のことだの、専攻したという科目だのについて書いた。
 ×夫人のところで不規則ながら収入のある仕事が与えられたという手紙が千鶴子から来た。間もなく使に出た家のものが、
「すぐそこで小畑さんにお目にかかりましたよ」
と帰って云った。朝だったので、はる子は附近に住む×氏を訪問したにしろ時刻が早いと思った。
「そうお、大変早いのね」
「この近所に御越しになりましたんですって。弟さんと御一緒だそうです」
「急にここへ引越しました。家は古くて奇麗《きれい》でありませんが、心持のよい人達です。×夫人のところへは歩いて十分で行けます」という意味のノートを貰った。×夫人の仕事でどの位の金がとれるのであろう。弟と二人暮せるのだろうか。はる子は一時安心しただけで、凝《じ》っと考えると矢張り千鶴子の生活を危く感じた。

 然し、この当座の仕事だけでも大分彼女の心持を休めたらしく見えた。春の日光が屋外に出ると暖く眩《まば》ゆいが、障子をしめた斜南向の室内はまだ薄すり冷たく暗いというような日、はる子はぽっつり机の前に坐っていた。からりと格子が開いた。
「いらっしゃいますか」
 千鶴子の声であった。出るといきなり、
「あなた丁字の花御存じ?」
と云った。
「丁字? 沈丁とは違うの」
「見て下さい、これ今お友達から送って下すったの。余りいい香《にお》いで嬉しくなったから一寸あなたにも香わせて上げようと思って」
 千鶴子は手にもっている封筒から、四つに畳んだ手紙を出し、土間に立ったまま、
「ほら、いい香でしょう」
と、はる子の前へ折り目を拡げた。女らしいペン字の上に細かい更紗飾りを撒いたように濃い小豆色の沈丁の花が押されていた。強い香が鼻翼を擽《くすぐ》った。春らしい気持の香であった。
「私もこの花は好きよ」
「いいでしょう?」
 千鶴子は前垂れをかけたまま亢奮して飛び出して来た、そのつづきの調子で、
「一寸この人字がうまいでしょう?」
など、断《き》れ断《ぎ》れに喋った。
「お上りなさいな」
「いいえ、また。これさえ香わせて上げればいいの、左様なら」

 はる子に優しい感銘を与えたこの立ち話しのみならず、千鶴子はいつも帰りを急ぐ人であった。彼女は夜が好きで自分の勉強は夜中するのだそうであった。弟は昼間勤めに出る。朝八時までに食事の仕度をしてやり、それから昼前後までが彼女の安眠の時間であった。それ故、はる子のところへ遊びに来るのは午後だ。はる子も寝坊な女であったから、それは好都合だが、一寸話すともう四時すぎる。千鶴子は三十分位で帰らなければならない時があった。夕飯をたべてから弟は夜学に行った。その仕度を彼女はおくらせてはならない。――
 もう永年のつき合いで、だが顔を見、やあというだけで気がくつろぐというのではないから、はる子は時に千鶴子の訪問から気ぜわしさだけをアフタア・イメイジとして受けた。家にいても堪え難い空虚を感じるらしく、千鶴子は、
「弟の帰るのが待ち遠しくて待ち遠しくて、この間もいきなり顔を見ると、――ちゃんと云ったきり泣いてしまいました。弟はまだ子供ですからね、困っていました」
と話した。
 彼女をはる子に紹介した×さんが、
「女は結婚して損はないんだがなあ」
と云ったということ。また、×氏が、
「いくつです」
と云うので、
「二十五です」
と答えた。
「へえ――。いつの間にそんなに年をとりました。――×××が妻君をなくし、子供は三人あるが――どうです、その人と結婚する気になりませんか」
と云ったと云うことなど、千鶴子は屈辱を感じてはる子に話した。各々の言葉がその人らしくはる子は面白いと思いつつ、千鶴子の癪《しゃく》にさわった気持も分った。
「そう簡単明瞭には行かないわね」
 然し、話すうちに、はる子には二三疑問が湧いた。
「あなた×氏には書いたものでもお見せになったの?」
「見ていただきました。――短いものでしたが褒《ほ》めて下さいました、そして、一二年みっしり努力すれば作家としてちゃんと立って行けると云って下さいました」
「それなら、どうして――
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