かというと自然発生的である。現実の現象の底流れを掴み、作家として自分の目をとらえた事象の底をついて整理し、頭から尻尾まで見とおした上で細かく筆を運んでゆくと云うのではない。べったりと、大局的抑揚少く、日から夜へ夜から日へと進んでゆく。ゴーリキイは自分勝手に現実を拵えない作家であると同時に、時には目の先の現実に押されたと思われます。
「四十年」が長篇として失敗していることには、加うるに他の原因があったでしょう。「四十年」はゴーリキイのソレント住居時代に執筆されたものでした。人々の驚歎するような精励をもって、ゴーリキイは当時のロシアの若い作家たちの生育のために助力していたし、ソヴェト社会の建設に注目をも怠らなかった。そうではあってもイタリーはイタリーなのであるし、日常の皮膚から入って来るような生活的影響というものは、何といっても違う。まして、ゴーリキイのようにロシアの民衆の一人として全く生活的な発展をとげて来ている作家、しかもその作家的気質の主な傾向は感性的な作家である場合、当時の波瀾極りなきロシアの建設の現実、その気分、その亢奮から遠のいていたことは、作家としてゴーリキイの内部の焔の高さ
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