にいる間に、女が二人参拝に来た。祭壇に近い柱のかげに坐り、包みから白い布を出してヴェイルとする。その被衣姿、二十六聖徒殉教図などに描かれているままであった。
同じ日に浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世に知られている。この建物も、始め起工した時から近年完成する迄には数十年を閲し、信徒の中には、自分の息子を大工、左官に仕立てその労力を献じて竣工させたという話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍あるであろう。合唱台もあるらしかった。けれども、建物ががらんとし過ぎ、明るすぎ、正面祭壇の白亜壁の前の巨大な花瓶に、厚紙細工らしい大棕梠の飾が立ててあるのなど、アフリカの沙漠を連想させた。ここには、それに大浦のようなピューがない。一面滑らかな板敷で、信徒は皆坐るものと見える。壮大な柱の根もとに穢い木綿坐布団が畳んでつくねられてあるのを見ると、異様に未開な感じがした。未開な、暗い頭脳が一むきに、ぜすきりしとを信奉し、まことに神の羊のように一致団結して苦難に堪えて来た力は、驚くべきだ。公平な立場から書かれた歴史を読むと、私共はシャヴィエル、ワリニヤニ等初期の師父――伴天連《バテレン》達が、神の福音をつげるに勇ましかったと同時、なかなか実際処世上の手腕をも具備していたことをしる。当時、その師父等と交誼のあった日本の君子等は、勿論知識と信仰とに呼醒されたこともあったに違いないが、純粋にその渇仰のみによってそうだったのだろうか。日本に於ける基督教布教史は当時乱世の有様に深く鋭く人生の疑問も抱いた敏感な上流の若い貴公子、女性などの無垢な傾倒と、この浦上の村人のような幼児の魂を持った人々の献身とによって、如何に美しく、如何に悲しくされているかしれないと思う。数多く来た伴天連の中には、これ等の人々のゆるがぬ信仰の殆んど神秘的な力をまのあたり見て、自分の信仰をも高めた者が一人もなかったと、どうして云えよう。それにしても、切支丹宗のどの福音がこんなに久しい伝統となるまで強く村人を捕えたのか。そして現在一九二六年の生活と信仰とはどんな工合に関係し、調和し、生きているのだろうか。この疑問は、天主堂から出て帰り途、若い二三人の娘が揃って御堂への坂を登って来るのに出会って一層はっきり私の心に起った。本願寺という寺の広間はこう
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