理なことだった。すぐ進一が来るということで、切った。
そこは産室につづいた廊下の端れで、二枚のドアが市内らしく狭い内庭に向ってあいていた。朝露に濡れた平石の上に石菖《せきしょう》の大きな鉢がおいてあって、細く茂りあった葉もまだ露を含んでいる。綺麗にしめりけを帯びた青い細葉の色が夜じゅう眠らなかったサヨの瞳にしみ入った。
非常に深い安らかなよろこびがサヨの心を満していた。そんなよろこびと安心の感情は予想していなかった。それほど大きかった。そのうれしさや安心とはまた別に、さっき雑誌の頁の中に見た乙女の姿がサヨの心の裡にある。
雀の囀りが活々と塀のところに聞えたと思うとやがて、ラジオ体操のレコードがどこかで鳴り出した。ピアノの単純なメロディにつれて「ヨオーイ、始メッ」というあの在り来りのレコードだが、擡《もた》げた顔に朝日をうけて凝っとそのピアノのメロディを聴いているうちに、サヨの体は小刻みに震えて、忍びやかな嗚咽《おえつ》がこみあげて来た。
このメロディは、重吉とサヨが結婚して間もなかったころの初々しい朝の目覚めの中へ、どこか遠くから響いて来た単純なメロディであった。
メロディと
前へ
次へ
全33ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング