られているものの輪廓がせり出して来て、きょう作業場の小屋掛けがとり払われたかと思うと、いつか飯場の露天竈も見えなくなって、後に長いコンクリート塀に囲まれた幾棟かの建物が完成した。そこには造幣局が出来たのであった。
そうなると、改正道路から見る原っぱの眺望も初めの頃とはすっかりちがって来た。左手にあの桜の並木の側に四角く建ったのは小学校である。それから、そのすこし奥に真新しい造幣局が出来て、それは以前そこまであとしさりして行ったもっと長いコンクリートの高塀と、黒い道一筋をへだてているだけである。草っ原は今やひろびろとした一帯の印象を失って、途切れ途切れの空地にすぎないものとなった。それでもそこから秋の更けるまで頻りに虫がすだいた。
もう一つ夏がめぐって来たとき、界隈の様子はまたこまかくうつりかわっていて、そこの小さな女の児が背負って遊ぶ赤い人形が、おから[#「おから」に傍点]桶の上に転がっていたりする豆腐屋のガラス戸に、原料不足につき月二回休業のすり紙がはり出された。
棒鱈屋のさきの米屋に、米の御註文は現金で願いますと刷ったビラと並んだ黒板に、内地米二割、外米八割と書かれていた。マッチ配給イタシマス。そういう貼紙が荒物屋にあった。そして、短い町すじの共同水道をはさんだこっちとあっちとに、町会が建てた二本の建札があって、それにはその前に建札の立った家からの戦死者の名が記されているのであった。
パッカードとかハドソンとかいう高級車が時々その長い高塀に開いている門の横にとまっていることがあるようになった。
その年の春ごろから、世の中が愈々鋭い角度で推移しはじめていることがそんな光景にも語られているようであった。
幾度か苦しい気持になりながら、それでもサヨは一つ住居に住みとおして、時間のゆとりのあるつとめの傍ら少しずつ洋画の修業をやり直しはじめていた。
重吉に対するサヨの妻としての感情は、云ってみれば純粋でしかあり得ないような条件で、サヨはその感情の純粋な単一さとでもいうようなものにこりかたまることを、重吉の心の成長のためにも自分のゆたかさのためにも警戒した。自分でも気づかないでいたような様々の感情を、自分に向って表現する手だてがあるとすれば、サヨとしては好きな画を描くことによるしかなかった。サヨが自分で自分のいろんな到らなさや鬱屈や感情の上すべりした所を絵のな
前へ
次へ
全17ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング