であった。
 春になると、改正道路の裏にある腐れかけの四軒長屋の一区画がとりこわされて、そこへ機械工場が新しく建った。タイム・レコーダアをおして職工や女工が事務所口から入って行った。ダットサンがとまって中から役人風の男が出ると、運転していた国防服があわてて事務所口へ案内した。そこらに見ていた事務員たちが、道をよけて一斉に頭を下げた。そんな光景も界隈としては目新しい。
 そこらあたりから屑鉄屋、鋳物工場、機械工場といろんな下請工場がどっさりあって、その金網つきの真黒によごれた窓の下で日中働いている若い男たちの青春を撫でながらむしりとる触手のように、カフェー街が刺戟的な色をぶちまけて並んでいるのであった。
 正午のサイレンが鳴ると同時に、工場の裏口から馳け出して来る女工たちのエプロン姿にも活気があった。互に声をかけ合いながら女工たちはそれぞれ曲りくねった路地の間へ素早く消えた。昼飯には戻って来る亭主がある。そんな急ぎかたの女もいる。
 朝夕に映る町の変化をひきまとめて一本つよい線を引いたように、その町の裏を市電が開通した。

 電車がとおるようになって間もなくの或る日であった。
 サヨは、棒鱈と豆もやしの桶をならべた暗くしめっぽい店だの古綿打直しやの店だのの並んだ横丁をぬけて、開通したばかりの電車通りへ出てみた。ごたごたした狭い通りからそこへ出た目はおどろくほどあたりが閑静で、右手のずっと遠くの終点には商店の赤い幟旗なども見えるが、左は遙かな坂で、今は電車が一台も通っていない真昼の広々とした通りが、しん閑と白雲の浮んだ空へ消えこんでいる。雑木林がすぐそこにあった。雑木林では欅だの楓だののいろんな樹木が、次第に光と熱とをまして来る春の陽の下で芽立っている最中である。尖った緑の珠のような点々がこまかいあみめとなってよりあって、注ぎかかる日光を余念なく吸っている。
 サヨは心持もちあげた白い柔かな顎にこまやかな艶をうかせながら、暫く歩道からその雑木林をうっとり眺めていた。それから、白い裳をふくらませて大股にゆく半島人の婆さんと車道を横ぎって、向い側の小路へ入った。再びごたごたして不潔な通りがはじまった。そして、塵芥籠《ごみかご》が高くいくつも積まれている空地の横で、路は三またに岐れている。その角のところで、サヨはどの道を選ぼうかと迷った。一本一本の道がどっちの方角に行っている
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