富ケ谷だとか富川だとか旭とか、日の出町だとか。
 附近の地図でいうと、下駄の歯入れやはそこから斜めうしろに拡っている何百戸かの苦しい世帯の最前列で、真向いに建ったコンクリートの塀の内側へのめり込むことだけはやっと数尺の距離でもちこたえているという風な活計であった。扇の骨のような奥ひろがりの路地へ入ると、傘をさした人一人やっと通れるほどの間隔で、箱のような家々が密集していた。家々の庇合《ひあわ》いにはあらゆる種類の洗濯ものと内地人や半島人のかみさんたちと子供たちと病人とが動いているのであった。
 空っ風がひどくその町を吹きまくった。向い風にさからって歩く女たちは云い合わせたように前かがみになって、ショールで口元を覆うた。改正道路まで戻ったとき、急に鋭い汽笛の音で顔をあげると、行き止りが線路の柵で、その下をごとごとと貨車がのろく動いて行った。貨車の屋根に雪が載っていることがあった。ちらりと見える雪のいくらか煤煙によごれた色は、鼠色に乾いた都会へほんとの冬がもたらされたように珍しく懐しくて、サヨはその瞬間激しく生活のよろこびへの郷愁で胸をしめられるのであった。
 ところがその年の暮ちかくなってから、歯入れやの店の様子がどことなく変って来た。世間一般に革草履だの本天の花緒だのが代用品になってゆく頃で、歯入れやの爺さんの店先は益々空っぽになって、がらん洞なガラス戸棚の奥に貼った緑色の模様紙の褪《さ》めたのがいきなりむき出しになった。それにもかかわらず客の体がやっと入るぐらいの店頭に何とはなしのうるおいが出来た。奥の方で紅い友禅の布《きれ》が動いているのが往来から見えた。それをいじっているのは爺さんとはちがって大柄で目鼻のきつい歯入れやの神さんであった。半纏をひっかけた近隣のかみさんがその前に坐って頻りに何か布をいじりながら相談している。奥いっぱいにひろげられた裁ち板の前で歯入れやの神さんは、大柄で体に或る権威を湛えながら、対手をしている。爺さんが軒下に立って冬の陽向《ひなた》で腰をのしているときの顔にも微かに油気がついた。毎日毎日神さんは裁物板に向って坐っていて、これまで何をたべているのか分らなかったような店の奥に人間がものを食う賑いの気配も動いた。
 この町にそうやって紅い友禅の色が見えはじめたということはとりも直さず、それにつづいてもっと大きな変化がおこって来る潮先の徴候
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