中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒白《ブラックアンドホワイト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例)実にこと/″\しい。
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 父は、ものを書くのが特に好きというのではなかったようですが、一般にまめであった性質から、結局はなかなかの筆まめであるという結果になって居たと思います。
 一生の間には、事務的な用向ではあるが夥しい度数の旅行をして居りますから、その都度書いてよこした寸簡類がもし今日迄保存されていたら、恐らく大した数にのぼって居たことでしょう。
 どういうわけか、父が家族に宛てて書いた手紙類は実に小部分しかのこって居ません。日頃あんまり活々と生活していたし、最近の十数年は、手紙類も用向だけを、(一)(二)という風に箇条書にしてよこしたのが多かったため、音信の実際上の役割がすむと、そのまま忘られ、そして捨てられて行ったのかもしれません。或は又、父自身が帰って来て、その辺につみ重ねてある不用の来信を整理するとき、例の調子で自分から破って淘汰の仲間入りをさせてしまったこともあったでしょう。
 今日、私共にとって纏った記念としてのこっているのは、明治三十七年一月から明治四十年頃まで父がイギリスに行っていた時代のエハガキ通信です。「ロンドン百景」「藻塩草」「浮世模様」などと題をつけて、殆ど三日にあげず種々雑多なエハガキを母葭江にあて、娘百合子にあて、当時二人の幼い息子であった国男、道男(亡)にあてて書いて居ます。三人の子供を抱いて留守を暮す若い母は、その一枚一枚を大切にとっていて、大きいアルバムに二つ、小さいの二つほどにぎっしりはめこまれて居ます。
 父は東京に住んでいた家族にこのようにして書いていたばかりでなく、福島県の開成山に隠棲していた老母に、凡そこの二分の一ぐらいのエハガキだよりを送って居ます。当時は外国雑誌など珍らしかったので、老母のところには、父が写真説明を日本語で細かく書いたグラフィックなども沢山ありました。それらは、現在でも開成山の家の戸棚に、赤ラシャの布につつまれてしまってあります。
 一九一八年に数ヵ月ニューヨークへ出かけた折の分も散逸してしまって居り、一九二九年五月、一家を引連れてヨーロッパ旅行した節のも、これぞというのがありません。この旅行の初めに、やはり父の気持ではエハガキ通信をつづけるつもりであったらしく、留守宅あてに「西欧行脚」という題で、これから送る通信なくさずとって置くように、と書いていますが、アルバムの様子で見ると、父自身やがて書き送らなくなってしまったようです。家には、そのようなハガキを待っているという人も居なかったし、不馴れな多人数での外国旅行で、さすがの父にも、この「西欧行脚」を完結することは不可能であった有様がうかがわれます。
 以下に、折々の通信のほんの一部分を抄出し、これらの通信の書かれた当時の雰囲気紹介のため、懐しい父への愛着のため、娘の思い出によって註を附しました。[#地から2字上げ](百合子記)

    書簡(一)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。イースタン・アンド・オリエンタルホテルの絵葉書。父のほかに「いが栗老人」などと自署された他の人々の寄書がある。ホテルの木立の間に父の筆で、雲を破って輝き出した満月の絵が描加えられてある。父は当時いつも「無声」という号をつかい、隷書のような書体でサインして居る。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(二)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。父は当時三十七歳。旧藩主上杉伯の伴侶としてイギリスに旅立った。留守宅の収入は文部省官吏とし月給半額。妻と三子あり。高等学校の学生であった頃から父の洋行したい心持はつよく、ロンドンやパリの地図はヴェデカの古本を買って暗記する位であった由。この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円騙った男を追跡し、それをとりかえしたという逸話さえある。しかしながら、遽しく船出して見れば、境遇上故郷に走せる思いはおのずから複雑であったのであろう。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(三)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。アフリカ海岸と飛島点々。父のペン画なり。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(四)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。左肩にスエズ運河を船が通過するところ右下には英語でニッポン、ユーセンカイシャ、S・Sビンゴマルと書かれた今日で見れば小さい客船の写真がある。凡そ二十年ほど後に、父は再びこの運河を、このハガキに所謂我妹子と子ららやからを伴って通ったのであった。母は旅行記の中に、スエズを通った日のことを書いているが、このようなハガキが遠い昔自分におくられたことを果して思い出していたであろうか。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(五)の一

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。エッフェル塔のエハガキ。一九二九年の初秋には、このエッフェル塔にシトロエン6というイルミネーション広告が終夜明滅していた。父、母、妹たちはヴル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール・ペレールのアパートメントに住み、百合子はヴォジラールの下宿の窓から、シトロエン6、シトロエン6、とせわしい明滅が、シャンゼリゼイの方に向って瞬くのを眺めた。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(五)の二

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。巴里、エトワールのエハガキ。後年、日本の女詩人与謝野晶子の健やかな双脚をして思わずもすくませたりという凱旋門をめぐる恐ろしい自動車の疾駆は未だ見えず、二頭びきの乗合馬車がカツカツと二十世紀初頭の街路を通っている。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(六)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。ランガム・ホテル全景。第五階とことわりがきのしてあるところを辿ってホテルの窓を下からのぼって見ると、屋根部屋のすぐ下に当る。当時でもヨーロッパではホテルの階が上である程やすいということにかわりはなかったのであろう。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(七)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。右手に茶色に見えるのが、チャーリングクロス停車場であろうか。このエハガキのむこうから黄色い外套を着ぶくれた御者にあやつられて栗毛の馬二頭にひかれた乗合馬車が来る。広場の中央に一本ガス燈の立っている周囲を、四本の標で区切ったいとささやかな安全地帯があって、包をもった子供がそこへかけつけている。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(八)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。風車・乾草・小川は秋空をうつして流れている。農婦は赤い水汲桶を左右にかついで小川に向って来る。画中の女、戦の勝敗を知らず。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(九)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。この頃シベリアは郵便物が通れず通信すべてアメリカ経由でされている。このハガキは東京へ八月二十七日着している。殆ど四十日かかって、ハーフディンバアの沙翁の家の写真が母の許についたわけである。父がまだ出立しないうち、一夜本郷座でシェクスピアの「ハムレット」を川上音二郎一座が演ずるのを見物した。五つ位の娘であった私の茫漠とした記憶の裡に、暗くて睡い棧敷の桝からハッと目をさまして眺めた明るい舞台に、貞奴のオフェリアが白衣に裾まである桃色リボンの帯をして、髪を肩の上にみだし、花束を抱いて立っていた鮮やかな顔が、やきつけられたようにのこっている。
[#ここから1字下げ]
 漱石がカーライルの旧屋を訪ねた時だけは帳面に自分の名を書いた。あの変り者のカーライルでも沙翁の家へ行ったときは自分の名など書く気になったのであろうかと面白い。ダンテの名もあるとハガキに父は書いているが、神曲の作者は沙翁がエリザベス女皇の劇場で活躍するより数世紀以前に白骨となっている。どこの、どの、神曲を書かさるるこれはダンテであったのだろうか。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(一〇)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。緑濃き野面に一本の桜桃の樹が丸く紅の実をたわわにつけている。その枝の下に一人の若い女が柔かい顎をあげて梢を仰いでいる。その顎のまわりに父はペンをとって細い一連の鎖とロケットとを描き、ロケットの心臓型の表には、はっきり小さくYと刻まれている。母の名は葭江である。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(一一)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。若い娘が三つのリンゴを掌の上に舞わして遊んでいる。イギリスの子供の生活にお手玉はあるのだろうか。お手玉はしなくなった娘は、ケンジントン、パアクの芝生で、これも老年に至った父とプッティング、グリーンをして戯れた。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(一二)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。漱石が明治三十三年にケムブリッジへ行ってそこの学生々活を観察し、次のように書いている。「こゝにて尋ねたる男の外二三の日本人に逢へり。彼等は皆紳商の子弟にして所謂ゼントルマンたるの資格を作る為め、年々数千金を費す」中略「彼等は午前に一二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二三時間を消し、茶の刻限には相互に訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す。」とそして、そのような生活は漱石にとって「費用の点に於て、時間の点に於て又性格に於て、迚も調和出来ないから、ケムブリツヂもオクスフオードもやめにした」……と。
[#ここから1字下げ]
 父の性格はケムブリッジ学生の生活と対立するような傾きのものではなかったと思われるが、三十七歳の良人であり父親である貧乏な学生として、テニスをやって見ても大して面白くもなれぬ父の正直な、境遇の相異をおのずから語っている心持を、今日私共はまことに親しみぶかく感じる。
 一九二九年の初夏、父は百合子をつれて、ケムブリッジを訪ね、思い出のある大学の建築を一つ一つ説明してくれた。そして笑いながら、「何しろ馬、馬丁と猟犬を何匹も飼っているような学生がいたんだから、こっちは人並のつき合いも出来かねるようだったよ。教授から個人指導をうけるわけだが、そんな金もありゃしなかったしね」と語った。楡の木のかげの公園で、町の若者たちが、学生は休暇で一人も居ない晴々しさで、ホッケーをして遊んでいるのを見物した。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(一五)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。この便りにある写真は、今日も保存せられている。ケムブリッジのガウンを着、帽をいただき、当時の流行で、ひどく先の尖った髭をつけて居る。母はこういう髭を眺めるとき「マア、お父様ったら、こんな髭して!」と云ったものであった。父はその髭をもって帰朝し、九つばかりであった百合子は激しいよろこびと極りわるさと、心に描いていた父とちがっている現実の父の感じとに圧倒され、気分がわるくなったようであった。
[#ここで字下げ終わり]

    書簡(一九)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。この画というのは、巨大な軍服に白手袋の魯国が仰向きに倒れんとして辛くも首と肱とで体を支えている腹の上に、身長五分ばかりの眉目の吊上った日本兵がのって銃剣をつきつけているイギリス漫画である。三十二年後の今日の漫画家は果してどのようなカトゥーンを描かんと欲するか。
[#ここで字下げ終
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