茶色っぽい町
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)椿山荘《ちんざんそう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二五年十月〕
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 小石川――目白台へ住むようになってから、自然近いので山伏町、神楽坂などへ夜散歩に出かけることが多くなった。元、椿山荘《ちんざんそう》のあった前の通りをずっと、講釈場裏の坂へおり、江戸川橋を彼方に渡って山伏町の通りに出る。そして近頃、その通りのつき当りに、何という医者だったか屋根の上へ、大万燈のように仰山な電飾(イルミネーション)広告をつけたのを遙か中空に見上げながら、だらだら坂をのぼって左、神楽坂へ行く。時には、神田辺へ行った帰り、廻って逆に音羽通を戻って来ることなどもある。――本郷辺にいると神楽坂は全く縁遠い場所だ。どうせ電車にのって下町に出る位なら、賑かな人通りをぶらつこうと云う位なら、銀座まで一息にのす。歩く道なら大学赤門前から三丁目がある。電車のルートの工合で、動き廻る道筋を制御される我々は、東京の他の沢山の隅々を、何か特別なきっかけのない限り外国に在る街同然知らないで過ごす通り、牛込、神楽坂などに縁遠かった。
 けれども、思い出して見ると、神楽坂は、さすがに去年までまるで歩いたことがないでもなかった。ずっとずっと前、いくつ位だろう、十一二になっていた頃か、飯田町に引越した叔父につれられ、まだ七つばかりの従弟と夜散歩したことがあった。淋しい牛込駅の傍の坂を下って、俄に明るく、ぞろぞろひどい人波が急ぎも止まりも仕ないで急な坂を登り降りしているのにびっくりした覚えがある。今は活動写真館になっている牛込館がまだ寄席であったらしい。そこに入った。高座の上で支那人が水芸をするのを見物した。小学校の記念日に大神楽がきっと来た時代だ。支那人のする水芸そのものは、黒紋付に袴の股立ちをとった大神楽のやることと大して違いはないのだが、その支那人は、(水色の、踝でしっかり結えた股引に、黒い靴を穿いていた。)派手な三味線に合わせ、いざ芸当にとりかかる時、いかにも支那的音声で、
 ハオ!
とか何とか掛声をかけると同時に一二歩進み、ひょいと右か左、どっちかの足を曲げて、パン! と靴裏でもう片方の脚の腓《こむら》辺を叩く。靴が軟かいし、永年の修練で、
 ハオ! パン!
と、それは丸い、其癖ひどく刺戟的な勇ましい音を出したものだ。子供の胸に、一種のセンセイションが湧いた。柔軟な鞣に包まれた肉体が、薄い布を透して肉体を搏つ音。原始的な何ものかが在ったに違いない。(この間来ていたデニショウン舞踊団の男の踊手が、そう云えば、かなりしばしばこの肉体を搏つ、野生な、激情的な音を織込んで利用していた――)そこで、水芸の後に、めずらしくイタリー女のハアプ弾奏を聴いた。日本では、天平時代の絵で見るぎり、今でもハアプは数尠い楽器の一つだから、ましてその頃は珍らしい。父が外国から買って来た絵画の本に描かれているそれと同じハアプが裾の広い黒衣の、髪に只一輪真赤な薔薇をさした女と現れたのだから、私は感歎した。女は随分気高く、美しく、音楽も上手に思えた。ハアプが、ヴァイオリンのようではなく、ピアノのような音なのをその時始めて知った。女は、両手で絃を掻き鳴らしながら、高い、顫える声で三つばかり歌を唄って引っ込んだ。何を唄ったのだったか、果して本当に女が気高かったのか、上手に弾いたか、今になっては判らない。
 ――それから後――……そうそう、まだもう一度あの坂の中途まで行ったことがあったが――いずれにせよ、あの辺はつい近頃の馴染《なじみ》と云える。
 二三度続けて散歩するうちに、何となく感じたのだが、神楽坂というところは、何故ああ店舗も往来も賑かで明るいくせに、何処か薄暗いような、充分燦きがさし徹し切れないようなほこりっぽいところがあるのだろう。布地にでも例えると、茶色っぽい綿モスリンのような雰囲気――つまり、どんなに燈灯が軒なみに輝いても、それを明快にキラキラ反映させる何かが無い、明るさを吸い込んでしまう。そんな心持がする。奇妙なことに、私は牛込区という名をきくと、決して神楽坂ばかりでない牛込全体をどうしても茶色と連想する。どうしてだか茶っぽい。他の色が浮ばない。丁度昼間の銀座ときくと、日光に反射する乾いた白灰色の平面しか思い出せないように。その茶っぽい雰囲気は、山伏町の通へ来ると殆ど黒い程になる。――
 八月の或る晩のことであった。私は友達と神田からぐるりと九段を抜けてその茶色っぽき神楽坂に出た。そして、段々矢来の方へ来ると、彼処を通ったことのある人は誰でも知っている左側の家具屋、丁度その前のところを歩いている一人の若い女に目がついた。そこいらで人通りが疎になっ
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