癇癪を起し焦立つように警笛を鳴し立てても、他の時ほど憎らしくはない。自動車も家に帰りたい!
 このように、散歩で私はいろいろ楽しんだが、一つ困ることがあった。
 その困るものを見出すと、私は京橋の方から伊東屋の側を来て真直にライオンの前まで行けない。半丁ばかり手前で郵便局の側に移った。それから面倒な辻を抜けて目的地に辿り着く。お定りのそこから、あちらに、自分がよけて通った一つのものを見渡すのだ。
 一つのものというのは、珍しいものではない。遽しい通行人の波打つ帽子の水準から、一寸高く頂を擡げている一つの婦人帽である。その帽子は、他のどれものように、右側の流れに乗ってこちらの鋪道にも来なければ、左側の潮流に従って京橋の方へとも動かない。丁度、行く群集、来る群集が自ら作る境めの庭で、一二間の間を、前後左右に揉れて漂っているばかりだ。婦人帽の動くにつれ、微弱な、瞬間的な動揺が鋪道の人波の裡に起った。
 私は、その或る時は派手な紅色の、或る時は黒い鍔広の婦人帽の下に、細面の、下品ではないが※[#「うかんむり+婁」、読みは「やつ」、193−3]れた、神経質なロシア婦人の顔があるのを知っていた。彼
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