い花だことない、こんな花は日本で咲きますか」
繰返し繰返し名を訊き、飽かず眺めた。祖母は一体に風流心のない人であった。部屋でも、塵なく片づいてさえおれば堪能しているのに、この時三輪の花に示した優しさは、前例ないことであった。祖母は御愛素でなくその華々しい薄桃色の草花を愛した。後で、種々枕元に飾ったがどれもそのカアネーション程は気に入らなかった。そして、不満そうに、
「あのお友達の下すった花はよかったなあ」
と呟いた。
四五日退屈な日が過た。医者は、段々祖母の食慾不振を不安がり始めた。生活力が洩れる水のように、絶えず目立たず、然し恐ろしい粘り強さで減退し始めた。一昨年の大震災当時祖母は過度な苦労をした。実の娘と孫とを失った。以来、衰えが目についた。病気そのものはもう癒ったのに、恢復する力が足りないのだ。祖母自身、生きたがらない。うっとりと死にたがっている。そういう病人を見ているのは不思議であった。激しい病と戦う若者を看護するような意気込みが無い。何でも活かそうという熱が湧かない。「どうだろう、」――漠然とした恐怖のない心配があるだけだ。
或る日、私は看護婦の入浴の間、祖母の傍にいた。火鉢の火が少くなって来た。台所に行ってガス火起しを見つけているうちに、私はふと何ともいえず胸を打ったものを見出した。硝子戸棚の下の台に、小さく、カンカンに反くりかえったパンが一切、ぽつねんと金網に載せたまま置いてある。眼を離そうとしても離れず、涙であたりがぼうっと成った。祖母の仕業だ。祖母は朝はパンと牛乳だけしか食べない。発病した朝焼いたまま、のこしたのだろう。捨てることを誰も気がつかなかったのだ。涙組みながら、私は自分の涙を怪しんだ。奇妙ではないか、祖母は決してこのパンばかりしか食べるものが無かったのではない。美味いものがいくらも食べられた人だ。それだのに、この古パンの一切れを見ると、云いようなく哀れで、彼女の全生涯が、忘れられてカンカラに乾からびたこの一切のパンの裡に籠っているように感じるのは、どうしたことだろう。台所はからりとして明るく、西日が、パンの載っている金網の端に閃いていた。
私の祖母に対する感情は変った。考えて見ると、私と祖母とは、仲のよいような悪いような複雑な間であった。祖母は概して無智で、押しが強く、ごくの実際家であった。昔の女らしく、一種の陰険さもあり、見識がないから下らない気兼苦労をする人であった。私は、彼女の総てに朗々としないのが大嫌いであった。妙なことに拘わって、忍耐強い性格のまま執念くやられると、私は憎しみさえ感じた。そして、怒った。怒りながら、私は祖母のために、編ものをした。細かい身の廻りのことにおのずから気がついた。
「いやなお祖母様。この装でお出かけになる積り? 駄目! 駄目!」
祖母は、ちゃんとした服装を一人でととのえることを知らないらしかった。手荒いように、然し念を入れて、私が襟元などをよくなおした。祖母と私とは、そういう心持のいきさつなのであった。変に哀れっぽい乾からびたパンを見てから、私の裡に在る真実が自分でも判らない一杯さで心に溢れて来た。いやなおばあちゃんという点は依然としてあるが、厭でもよいというような気持、ただ可哀想という心持。――
父は急いで九州から戻った。帰った日から祖母の容態が進み、カムフル注射をするようになった。十中八九絶望となった。祖母は、心持も平らかで、苦痛もない。私は、父の心を推察すると同情に堪えなかった。父は情に脆い質であった。彼にとって、母は只一人生き遺っていた親、幼年時代からの生活の記念であった。兄や弟、妹たちは皆若死をした。母がなくなれば、妻子を除いて、父は独りぼっちだ。父も若くない。寂しく思うだろう。私は自分が子としての立場にある故か、父を愛し愛している故か、それがひどく父の身に代って思い遣られた。
十六日の晩、私は息抜きという心持で外出し、外で夕飯をたべた。帰って夜中祖母の傍についていた。翌朝五時頃眠って午後起き、また病室に行った。看護婦の数が殖え、医師のいる時間が延び、家中の生活に昼夜の境がぼやけ始めた。その恭々しい混雑の裡で、動かず、静かにしているのは、祖母だけだ。けれども、凝っと脈搏に注意したり息の音にきき入っていると、祖母はこれまでの祖母とはまるで違い、ひっそりした内密の魂の何処かで、いそがず綿密に何かの準備をしている人のように思えた。手落ちない、この世の最後の仕度にとりかかっているような。傍の私などに窺い知れない内部的なものが生じたようでさえあった。
臨終は、ごく穏やかであった。細る呼吸に連れて生命が煙のように立ち去った。体は安らかで知覚なく、僅に遺った燼のように仄温いうちに、魂が無碍に遠く高く立ち去って行く。決して生と死との争闘ではなかった。充分
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