た時、私は帰ってから始めて祖母に会った。子供のように、赤いつやつやした両頬で、楽しそうにはしていたが、二三ヵ月前に比べると、ぐっと老耄したように見えた。弱々しいあどけなさめいたものが、体の運び方に現れた。私は、思わず、
「おばあちゃん、いかがでした、安積は」
と云った。御祖母様という言葉に暗示される威厳、構えというようなものが、自然とれていたものと見える。そのとき祖母は、賑やかに揃っている連中を見渡しながら、巾着を何処へやったか判らなくなって困る困るとこぼした。
数日後の或る朝のことであった。電話が掛って来た。私は友達の家にいた。電話口に出て見ると、母の声で、祖母が四五日前から腸をこわし、昨夕から看護婦をつけている。見舞いに来るように、ということだった。――電話を切りながら、安心のような不安心なような不確な心持になった。母自身もどの程度まで大事に考えてよいのか見当のつかない口ぶりであった。私は、途中で平常祖母の好きな謡曲のレコードを買って行った。
祖母は、几帳面なたちであったから、隠居所はいつもきちんと片づき、八畳の部屋も広々としていた。祖母は、そこに寝ているのだが、派手な夜具の色彩や看護婦や枕元の小机などで、部屋は狭く活気満ちて見える。私は美しいオレンジ色の毛布から出ている祖母の顔付を見ると、例え四五日でも知らずにいたのをすまなく感じた。祖母は想像して来たより遙に衰えていた。入れ歯をとっているせいもあったろう。口元など、別人のように痛々しく皺みくぼんでいる。息が抜けるので一層弱い声で、祖母は、
「なしてこげえな病気になったろう。……早く死にたいごんだなあ」
と訴えた。彼女は、病気より何より自分で厠に行けないのを苦にやんだ。一寸気を許すと、夜なかでも独りで立って行こうとするので困ると、看護婦が説明した。私は無頓着な元気な風で、祖母の一克さを笑った。そして、乱れた白髪を撫でつけてあげながら少し大きな声で、
「おばあちゃま、謡の種板を買って来たのだけれど、おききになりますか」
と訊いた。祖母は、暫く考えていたが、穏やかな口調で、
「謡はいいなあ、おら地言《じごと》(文句)は判らないでも、音をきくだけで、気までしゃんとするごんだ」
と答えた。私は重ねて、
「おききになる?」
と尋ね、合点するのを見て悦びを感じた。友達は、数年前に母を失った経験を持っていた。彼女は、恢復力のない病人は、音楽などをいやがるようだと話した。祖母が、蓄音器を聴こうというのは、よい徴候だ、大丈夫だと、私は嬉しく思ったのであった。
翌日、祖母は鉢の木や隅田川など、満足した顔付で聴いた。傍で、把手《ハンドル》を廻しながら彼女の楽しむ様子を眺め、私はレコードを買って来てよいことをしたと思った。昔から祖母は謡曲好きなのに、近頃若い者達の買いためるレコードは、皆西洋音楽のものであった。それらもすきでききはしたが、時々思いついたように、謡のは無いかと云い出した。田舎に出かける数日前の夜も祖母は私にそれを云い出した。私は、彼方此方捜して見た。長唄はあるが謡は無い。祖母はもう聴かれるものと思い、わざわざ椅子の上に坐って待ちかまえている。私は、素気なくありませんと云えなくなった。仕方なく、度胸を据えて、長唄の石橋をかけた。祖母は、それとは知らず、掛声諸共鼓が鳴り出すと、きっちり両手を膝につっかい、丸まった背を引のばすようにして気張った。その姿は、滑稽でもあり、また気の毒至極であった。実際聴きわける耳もないのに謡と思うとああいう風に気を張るのかと思うと、暗い一念、という印象が強く私に遺されていた。先ず本ものの謡がきかされてよかった。
腸の方は、少しずつよい方に向い、祖母は甘酒を頻りに啜った。食慾は余りつかない。そのうちに父が九州まで出張しなければならなくなった。用事は彼を待っているが気が進まず、やっと、医師の保証で出立した。出立の夕方父は、隠居所に行った。
「一寸用で国府津まで行くと申上て来たからその積りでいてくれ。遠くだと落胆なさるといけないから」
「そうお、私困ったわ、父様が九州へいらっしゃると云ってしまってよ、もう」
「変だね、始めて聞くように云っていらしったよ」
「じゃあお忘れになったのよ、却ってよかったわ」
父の旅行先には、毎日夕刻「ハハカワリナシ」と電報を打った。祖母は、父の多忙のため、幾日も顔を見ないことに馴れていた。旅行については何もきかず、蜜柑の汁、すっぽんのスープ、牛乳、鶏卵などを僅に飲みながら、朝になり夜になる日の光を障子越しに眺めている。口を利くのは、まだ起きてはいけないかという質問と、何故こんな病気になったろうという述懐の時だけである。私の友達が綺麗なカアネーションを持って見舞に来てくれた時、祖母は始めて、病気を訴える以外に口を利いた。
「美し
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