生きた魂の自然な離脱、休安という感に打れた。八十四歳にもなると、人はあのように安らかに世を去るものなのだろうか。
 私は、これまで弟妹や外祖母、叔父などの死に会っていた。その経験から、この祖母の死も冷静に受けられると思っていた。年に不足はないのだし、苦痛ない往生を遂げたのだから。けれども、この予想は誤っていた。祖母の臨終の時から、一種異様な寥しさが私の心の底に食い入った。死なれて見て、祖母と自分との絆が如何に深いものであったかを知った淋しさとも云える。何だか淋しい。心持の上で、祖母は死んでこの世から消滅し切ったものとは思えず、芝居でする遠見の敦盛のように、遙か彼方で小さく、まざまざと活き動いているのが見えるようだ。祖母の姿や声もはっきりしている。ふと、
「おばあちゃん」
と呼びかけたいような気持になる。然し、祖母は、もういない人だ。二度と会えない。どんなに思っても私の生涯に再び会える時は無くなったのだ。こんなに鮮やかに、こんなに微細な髪のくせまで判っている彼女の全存在が、只私の心にだけ止っている影像に過ないとは、何という不思議だろう!
 物静かなこの淋しさは、私に種々のことを思わせた。特に、将来自分がいつかは経験しなければならない愛する人々との別離に対してどんな用意があるだろうか、ということが考えられた。祖母との訣別は思いのほか強く私を打った。祖母でさえそうだ。まして、自覚し思い込んで愛している幾人かの愛する者との別れが、不意に来たら、自分はどうするだろう。この恐怖は、祖母の葬送前後著しく私を悩した。それを考えると、自分の健康なのが却って重荷のようで、涙が出た。私が先に死ぬのであったら、一番よい。愛する者を次々に送って、最後に自分の番になる寂寥を思うと殆ど堪え難く成った。
 日数が経つと、そんな感情の病的に弱々しい部分は消えた。私は再び自分の健康も生も遠慮なく味い出した。私はやはり日向で、一寸したことに喜んで、高い声をあげてはあはあと笑う。
 祖母は、水に棲む貝で例えれば蜆のような人であった。若し蜆が真珠を抱くものとすれば、それは私に対して持ってくれた一粒の愛だ。
 通夜は賑やかであった。私は眠れず、二晩起き通した。人々は、種々雑談した。自分も仲間に成って話しながら、そこに祭られている当の祖母について誰一人何の思い出らしいものをも話さないのを侘しく感じた。祖母は全然逸話を持たない人であった。私の心に甦って来る事々も、皆、祖母自身から聞かされた、第三者には何の興味もない世帯の苦労話ばかりだ。例えば、祖母の右の腕は力がなく重い物が持てなかったその訳とか、姑で辛い思いを堪えた追憶だとか。出入りの者などはそれさえ知るまい。ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。
 二日目の通夜が、徐々朝になりかけて来ると、私は今日限りの別れが云いようなく惜まれて来た。早朝の寒い空気の中で御蝋燭を代え、暫く棺を見守り、父の処へ行った。私は疲れていたので、桐ケ谷には行かない予定に成っていたのだ。私は父に自分も先方まで送りたい願いを伝えた。願いは叶い、私は父と二人きりで祖母を最後の場所まで送った。棺は恐ろしく手早に火葬竈に入れられ、鉄扉が閉った。帰りの自動車の中で、涙が流れて仕方なかった。私はすぐくっついて腰かけている父に気づかれまいとして、そろそろ灯のつき始めた街路の方に顔を向け、涙を拭きもせず黙っていた。父は、少し来てから、親切に、
「寒くはないかい」
と訊き、膝かけの工合をなおしてくれた。父の声もうるんでいる。そしてやはり窓の外ばかり見ている。やがて、明に私の気を引立たせる積りで、彼は、飛び過て行く道路の上で目についた些細なことを捕えて活溌に喋り出した。間に軽い諧謔さえ混ぜる。おどけながら、父は頻りに手巾を出して鼻をかんだ。その度に、やっと笑っている私は、幾度か歔り上げて泣き出しそうに成った。
 翌日、御骨は羽二重の布に包まれて戻って来た。それを広間の祭壇に祀り、向い合って坐っているうちに、私は生きている祖母と隠居所ででもさし向いでいるような、親しい暖かさが、胸に充ち拡るのを感じた。背後には、午後の冬日がさしている。畳廊下の向うの硝子に、祭壇の燃える蝋燭の二ツの焔が微に揺れながら映っていた。二本の燭はこれも一隅が映っている白い包みを左右から護って、枯れた辛夷《こぶし》の梢越しに、晴れやかに碧い大空でゆらめいているように見えた。
[#地付き]〔一九二五年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「文
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