に、確乎性をもって歴史的な眼から行われ難い。船が難破しかかったとき、最後にその船を転覆させて自分たちの命もすてさせてしまうのは、舷の傾いた方へ我を失って塊りすがりつく未訓練な乗客の重量である。その通りのことが生じて来る。批判は発展的にされず、対比的にされる。ああではない、だからこう、と、一方へぐっと傾く。これまで、民衆を指導するなどと考えていたのは烏滸《おこ》の沙汰である。先ず自分から民衆の一人となって、その日常の内へ入って、しかる後云々ということが、違った形での民衆性へのエキゾチシズム、感傷、自分の意識人としての本質の放棄としてあらわれて来るのである。
「収獲以前」は、上に述べたような作者の知識人としての内的推移の跡を語っている。そして、この特色的な生活態度における方向の放棄の傾向は、最近舟橋聖一氏の「新胎」という小説の結尾にもあらわれている。「新胎」では、この作者によって一二年前提唱された能動精神、行動主義の今日の姿として、実力養成を名とする現実への妥協、一般的父性の歓喜というようなものが主流としてあらわれて来ているのである。
青野季吉氏が、近頃『文学界』を中心としていわれている
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