汗顔ものであると同時に、同志たちの立場としても、相当記憶にのこるべき滑稽な誤解であるといえよう。何故ならばそのような誤解は、プロレタリア文学運動における右翼日和見主義の危険との闘争の本質を自身の問題としてのみこんでいないところからのみ生じ得る誤解であるからである。そして、そのような右翼的危険に対する無関心は、その危険の中にあるもののみが持つ一つの特徴だからである。
 同志須井の「幼き合唱」の右翼的逸脱がわれわれの関心事であるのは、特に彼が「綿」の作者だからこそなのである。同志藤森の「亀のチャーリー」の主題の積極性の喪失が問題となるのは、同志藤森が、日本のプロレタリア文学史に記録されるべきいくつかの作品の作者であり「指導部の一員」だからこそである。同志林は、十年の閲歴とその価値を、この闘争においてこそ大衆にとわれているのである。作家同盟は「共産主義的作家、同盟者作家、同伴者的作家などによって構成されている」(第五回大会決議)プロレタリア文学確立のための大衆組織であることは明らかである。しかし、それがプロレタリアートの当面の課題を課題とし、プロレタリアートの勝利を自己の勝利と目ざして進む階
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