がら短い時間のうちに、御自分の思っていたよりも早く、芸術家としての彼女の前に積みあげられた乗り越えるべきものを、まともに踏みこえてみようと言っておられました。
あの展覧会をみたあとで、赤松さんのこの率直な勉強の話をきいて、やっと先が明るくなりました。小市民的なヒロイズムそのものが人民の前衛ではありません。小市民の中にある客観的な、自己陶酔でない、歴史とともに前進してゆく進歩性、つまりブルジョア・リアリズムを着実な生成の過程で発展させてゆこうとする進歩性が、社会と芸術の前衛たりうるのではないでしょうか。前衛という言葉の意味は、歴史性のなかでまじめに考えられるべきでしょう。小市民的な主観性の中での先端、というような意味ではないと思います。文学においても、美術においても、小市民的な先端から、ほんとうに歴史を押し進めてゆく社会的階層の前衛としての本質に移ってゆくことは、芸術以前の生活において容易なことでないのと同じように、芸術の上では、おそろしく根気づよい過程が要求されているのだと思いました。
職場からの出品は、この展覧会でも、他の場所に陳列された絵からうけた印象も、生活力には溢れているけれども、素人にわかる範囲での技法、ことに色彩の解釈や置きかたなどが、まだまだもとからあるものに支配され、追随していると感じます。そして何処やら、対象の掴みかたがぼんやりしている。つまり、描きたい心は百あって、描けているところが七十から八十で、あと二十の表わしたいという気持が、その客観的に画面に押しだされ切らない空気のなかに、漂っている感じでした。
自立劇団が大変上手になったけれども新劇のあとを追っているという可能性があるように、絵画のような訓練の要る、材料に費用のかかる芸術では、職場といっても、そこの画家たちはいわゆる労働者ばかりではないでしょう。職場からの絵画のなかに、むしろ絵画以前のエネルギーとして表われている可能性は、現実会の作品や前衛美術会の雰囲気のなかに立ち混って、決して容易でない民主的芸術の前途を暗示しているようでした。
あの展覧会には、日本画も幾つか出ていました。日本画というものの未来について、これらの日本画家はどんな展望を持っていられるかと興味をもちました。ちょうど私が見ていたとき、三人のアメリカ兵が会場に入ってきて、各室をスースー通りぬけながら最後の一室にやって
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