いうことを深く思い返させました。昔の矢部さんの絵は、色調において暗かったし、テーマもパセティックであって、奇麗な絵ではなかったかも知れませんけれども、私の心には今日なお刻まれている画面もあります。人生の現実、社会の歴史の現われ方がパセティックなものにばかり焦点を見るということは、一つのセンチメンタリズムであって、芸術家の広い視野と感受性とは、その反対の寛ろぎや、平安や、歓びを芸術の美として映し出すことは当然です。でも、現実会というその会の名をまじめに考えたとき、私は正直に言って、十人が十人似たような絵を似たような彩りゆたかさで、安易なテーマで描いていることについて不安を感じました。現実というものは、個々において、もっと多様です。リアリズムというものは、何かもう少し違った、動いているもの、遊んでいないもの、突っこんだものだと思います。過去十数年の日本人のおかれた生活があんまり暗かったから、それに対する抗議が、ああいう色彩や空虚なような明るさまで主張されたのでしょうか。おそらく現実会の方々自身が、この問題の本質的な発展のために、まじめに考えていらっしゃることと思います。
新しくなるということは何という大事業でしょう。新しくありそして生長するということは――。新しくなる道を捜して、崩れてゆく過程は、文学でもはっきり現われています。ブルジョア・リアリズムの限界を感じて、しかも民主主義的な人民の文学の発生に対して自分を合流させなかった作家たちが、高見順からはじまって坂口安吾まで、椎名麟三まで、流れ崩れて、漂っています。芸術の分野で多くの要素を占めている小市民的な階層の作家たちの心情は、進歩的な人はつねに古いものの圧力と戦う意識をもっているけれども、戦いかたにおいて大変主観的であるということは、文学も美術も共通でしょう。
あの展覧会にあった赤松俊子さんの二つの大きな絵は、その努力と、新しいものと古いものとの歴史的な一種の錯覚の痙攣がみられました。新しくなることのために、どれほど、平凡で分りきったような現実追求がされなければならないかということを飛躍して、画家の主観的な気分の昂揚の中で「新しい」ものを生もうとする苦悩がありました。
このあいだ赤松さんにお会いしたら、私が深い疑問に感じたこの点を、自分ではっきり把えておられたので、うれしく思いました。しばらく健康を恢復させな
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