来て、ああこれはいいと言って、一人混っていた女を先にたてて止まったのは、一枚の日本画の前でした。輸出芸術としての日本画の運命が何と鋭く閃いたでしょう。
 アンデパンダンの日本画家たちは、日本画というものの屈辱的な運命を克服する使命があります。日本画で線というものは何を意味するでしょう。法隆寺の壁画を思いだします。大観の絵と違った世界があることを感じます。この課題が日本画家たちによって、どう解かれてゆくでしょうか。

 内田巖さんのお母さんを描かれた二枚の肖像、永井潔さんの蔵原さんの肖像と男の像、なにか印象にのこります。一口で言いきれないものが残されているのです。
 内田さんという方は、作家からみれば、何か複雑な内部構成をもっている方だと感じます。言ってみれば、二つの極端にちがったものが気質的に内在していて、それを統一している力が、あの絵を描かせているというような感じです。あの絵は、何か一つの力で統率されているけれども、あれが割れたら、どんな人間性と芸術性があるのでしょう。絵の批評とすればトンチンカンなのかしれないけれども、私はそう感じました。だから、一方から言えば、あの絵にある不思議な冷たさ、どこか病的なところを突き抜けた先の内田さんはどういう絵をおかきになるのだろうと思いました。
 永井さんは大変才能のある作家だということを聞いていましたが、作品をみて私も同感しました。けれども、その蔵原惟人の肖像は、小説で言えばモデル小説です。かかれている人の名がわかって見る者は納得するというようなところがあって、画面そのものが何処やらただものでない一個の男をえがき出していて、おやと思ったら、或る人の肖像であったというような、画面の芸術的実在性が弱かったように思います。こんなことを言うのは、絵描きではないからでしょうか。顔は似ているけれど、画面での存在のし具合が、一個のサラリーマンの肖像とどれだけ違ったでしょうか。人間を描くということ、社会的・歴史的人間を描くということは、絵でも小説でも大仕事だと思いました。
 この他幾つかの印象に残っている絵があり、一見平凡のようだったそれらの絵の作者のこの次の作品が楽しみのような気がします。カタログに記録をつけなかったので、はっきり画題までは言えませんが、「都民」という絵には光線がバラバラで画面のまとまりが悪かったけれど、生活的なおもしろさが
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