父上が先の森さんのうちの前で見ると、九十度位の角度に火が拡って居た。
 ○不逞鮮人に対する警戒はきびしく思いちがいで殺された人間(鮮人、邦人)が多い。二日三日の夜には、皆気が立ち、町内の有志が抜刀で、ピストルを持ち、歩いた。四日頃からそのような武器を持つことはとめられ、みな樫の棍棒を持つことになった。
 やりをかつぎ、闇からぬきみをつき出されたりした。
 ◎野沢さんの空屋の部屋で、何かピカリピカリと電気が見えるので変に思って行って見ると、日本人の社会主義者が一人つかまった。
 今度、放火したり、爆薬を投げたりしたものの中の大多数は日本人の社会主義者だと云う話がある。真ギはわからないが、若し日本の社会主義者が本所深川のように、逃場もないところの細民を、あれほど多数殺し家をやき、結局、軍備の有難さを思わせるようなことをするとしたら、実に、愚の極、狂に近い。
 鮮人の復讐観念が出たのなら、或程度までそれぞれの理由も察せられるが。又、鮮人がしたとしても、問題はこの事件の落着にとどまらず、朝鮮と日本の在る限り、重大な、持続的な問題である。
 八日、基ちゃんと、青山にかえる途中、乃木坂行電車の近くで、大森の基ちゃんの友人に会い、実際鮮人が、短銃抜刀で、私人の家に乱入した事実を、自分の経験上はなされた。
 つかまった鮮人のケンギの者にイロハニを云わせて見るのだそうだ。そして発音があやしいと忽ちやられる。
 林町の方で三十七八の女が白粉瓶に毒薬を入れて持って居るのを捕ったと云う話、深川の石井が現に、在郷軍人の帽子をかぶって指揮して居るのを見たと云い、恐しいものだ。

 本田道ちゃんの話
 丁度昼で三越に食事に行こうとして玄関に出て来ると、いきなり最初の地震が来た。あぶないと云うので、広場の真中にかたまって三越の方を見ると、あの建物がたっぷり一尺右に左にゆれて居るのが見える。化粧レンガはバラバラ落ちて来るしガラスはみなかけ落ちるし大変なことと思い、二度目がしずまると、家にかえって見た。そして、又 office に行き丁度三時頃家へかえり切りになる。地震は、相変らず時々来るが、火事はまかさ来まいと思い、荷作りなどをしないでも大丈夫だと、下の婆さんに云って一先ずガード下に地震をよけて居るうちに、五時頃、段々火の手が迫って来るので、大きな荷物を四つ持ち、鎌倉河岸に避難した。始めは、材木や何かをつんで置いたところに居たが、あとで気がついて竹で矢来をくみ、なかに、スレート、石のような不燃焼物のあるところにうつり、包を一つスレートの間に埋めて居た。が、火の手が迫って来ると、あついし、息は苦しいし、大きな火の子が、どんどん来る、後の河には、やけた舟が漂って来て棧橋にひっかかる。男が棹でおし出してやる。いざとなったら、後の河にとび込む覚悟で、火の子を払い払いして居るうちに、朝になり、着のみきのままで林町に来た。
 下の婆さんは、ガード下に居たとき近所の人に、小さい女の子と、酒屋の十ばかりになる小僧を一寸見てやって下さい、とたのまれたので、その子にすがりつかれたばかりに何一つ出さずにしまった。
 ばあさん曰く「憐れとも何とも云えたものじゃあありませんや、一寸此処に待っておいで、おいでと云っても、可怖いから行っちゃあいやーとつかまえてはなさないんでしょう。私も、自分の荷物を出そうとして、ひとの子をやき殺しちゃあ寝ざめがよくないと思って、我慢してしまいましたが……それもいいがまあ貴女、その小僧が朝鮮人の子だって云うじゃあありませんか、私口惜しくって口惜しくって、こんなんなら放ぽり出してやればよかったと思ってね、傘一本、着換え一枚ありませんや。」
 その婆さんが話したが、呉服橋ぎわの共同便所の処で三十七人死んだ、その片われの三人が助かった様子、中二人は夫婦で若く、妻君は妊娠中なので、うしろの河に布団をしずめて河に入れて置いたが、水が口まで来てアプアプするので、仕方なく良人も河にとび込み舟に乗ろうとすると、舟は皆やけて居る。やっと、橋の下に一つやけないのがあったのを見つけ、それに二人でのり、手でかいて、逃げ出した。そのあとにのこった三十七人が、火にあおられ、救ろう助かろうとして居るうちに、やけ死んでしまったのであった。
 その男は、後親類のものに会ったとき泣いて今度のような目にあったことはないと云った由。

 深川の石井の逃げた様子。
 すぐ舟に家族のものと荷もつだけをのせ、大川に出た。ところが越中島の糧秣廠がやけ両国の方がやけ、被服廠あとがやけ四方火につつまれ川の真中で、立往生をした。男と云えば、船頭と自分と二人ぎりなので五つの子供まで、着物で火を消す役につき、二歳の子供は恐怖で泣きもしない。
 そのうちに、あまり火がつよく、熱と煙のため、眼が見えなくなって来た。
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